①道場駅から
②有野川越しに
③地蔵
④道場駅から
⑤有野川越しに
訪問日:2002年10月(④⑤) 2007年8月(①②③)
所在地:神戸市北区
「松原氏系図」によると、松原氏は嘉吉の乱の首謀者・赤松満祐の弟・祐之の子・松原貞基が赤松政則による赤松氏再興における大功により、有馬郡道場河原草下部城(蒲公英城)を与えられ、有野荘・生瀬荘などを領したのが始まりとされる。
2代目義貞は永正8年(1511)洛北船岡山の戦いで細川政賢と戦って討死、3代目家久も享禄3年(1530)播磨庄山城主・浦上村宗と戦って討死した。
4代目家長は天文8年(1539)播磨に侵出してきた出雲の尼子晴久と戦い、天文18年(1549)には摂津三宅城の戦いでいずれも武功を挙げたという。
5代目義富は永禄3年(1560)家督を継ぎ、天正元年(1573)には有岡城主・荒木村重と戦い、天正6年(1578)播磨三木城主・別所長治が織田信長に背くとこれに従って三木城に入り、天正8年(1580)三木城落城後は帰農して栄えたといわれている。
一方で、「松原軍記」では、松原氏は河内松原の百姓で楠木正成の家臣・市蔵に始まり、天正7年(1579)松原貞利が蒲公英城を羽柴秀吉に攻められ自害したとされる。
天正6年(1578)に秀吉が道場河原に付城を設けたことが「信長公記」で明らかであり、これを拠点に同年三田城を攻略している。これが空城となった蒲公英城を利用したものとも考えるので、個人的には城主が自害するほどの「蒲公英城」の戦いは無かったのではないかと思う。
以下、現地案内板より
松原城址
別名たんぽぽ城と言う。たんぽぽは「つづみ草」とも呼ばれ、城主の娘が鼓の名手であったことによる。
城主松原氏は三木城の別所氏に味方したため、織田信長軍の秀吉に攻められ、天正7(1579)年に落城した。この麓の道場川原村には、秀吉にまつわる古文書や、「太閤水」や「巻取りの飴」などの伝承が多い。
城主松原氏は三木城の別所氏に味方したため、織田信長軍の秀吉に攻められ、天正7(1579)年に落城した。この麓の道場川原村には、秀吉にまつわる古文書や、「太閤水」や「巻取りの飴」などの伝承が多い。
神戸市北区役所・道場町連合自治会