越前 敦賀城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑(真願寺)

イメージ 2②礎石

イメージ 3③中門(來迎寺表門)

イメージ 4④中門(來迎寺表門)

イメージ 5⑤案内板

 

訪問日:2009年8月

 

所在地:福井県敦賀市

 

 大谷吉継は真田信繁の岳父であり、かの大河ドラマでも恐らく大きく取り上げられるであろう人物である。

 

 吉継の出自は永禄2年(1559)六角氏旧臣の浅井氏家臣・大谷吉房の子として生まれたというのが通説だが、永禄8年生まれという説や、豊後の出身であるとか、妹婿が本願寺坊官・下間頼亮であることから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子ともいわれる。

 

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで、長浜城主・柴田勝豊を調略し、本戦においても七本槍に匹敵する武功を挙げたという。

 

 天正13年(1585)紀州征伐では2千の兵を率いて出陣、同年7月、豊臣秀吉が従一位関白に就任した際に従五位下刑部少輔に叙任された。

 

 天正14年(1586)の九州征伐で兵站奉行の石田三成のもとで働き、同年に三成が堺奉行に任じられるとその配下で実務を担った。

 

 この間、大坂で千人斬りという辻斬り騒動が起こり、吉継が犯人だとの噂が立ったが、後に真犯人が捕らえられ、秀吉の吉継への信頼は変わらなかった。

 

 天正17年(1589)日本海交易の要地である越前国敦賀郡に2万石を与えられて大名となり、敦賀城を居城とした。

 

 天正18年(1590)の小田原征伐においては事前に使者として徳川家康を訪ねて駿府城に赴き、家康の協力を取り付けた。功により戦後5万石に加増された。

 

 慶長5年(1600)上杉征伐に敦賀城から出陣し、三成の佐和山城に立ち寄り、挙兵を持ちかけられて最初は反対したものの、西軍に与することを決意した。この時、大坂にあった真田信繁の母・山手殿および信繁の正室である娘の身柄を預かっている。

 

 関ヶ原の戦い本戦で奮戦したものの、隣接したところに陣を布いた小早川秀秋や朽木元綱らの寝返りに遭い討死した。

 

 吉継の長男・吉治は信繁とともに大坂城に入り大坂夏の陣で討死、子孫は帰農した。次男・木下頼継は初陣の関ヶ原で敗走し、その年のうちに越前で15歳で病死、三男・泰重の息子・大谷重政は後に越前福井藩士となり、子孫を伝えている。

 

 信繁に嫁いだ娘(養女とも)・竹林院は大坂の陣で豊臣秀頼に殉じた信繁の長男・大助(幸昌)、仙台藩に引き取られた次男・大八(片倉守信)と6女・阿菖蒲(片倉定広室)や、7女・おかね(石川貞清室)の母で慶安2年(1649)京都で亡くなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

敦賀城の跡 敦賀町奉行所・代官所の跡 敦賀県庁の跡

 

 天正11年(1583)蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同17年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は、現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は、敗れて自刃した。元和元年(1615)の一国一城令によって、城は破却された。

 

 寛永元年(1624)小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同11年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に、藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋町)の支配で警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。

 

 明治4年(1871)廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立3郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。同6年に足羽県をを統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。同9年8月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県に属した。同14年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが、県庁が敦賀に戻ることはなかった。その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局、明治42年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して、現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。

 

(省略)

 

平成9年10月11日 敦賀みなとライオンズクラブ