出羽 松山城(松嶺城) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①大手門

イメージ 2②大手門

イメージ 3③大手門

 

訪問日:1998年7月

 

所在地:山形県酒田市(旧飽海郡松山町)

 

 出羽松山藩は庄内藩初代藩主・酒井忠勝の3男・忠恒が、正保4年(1647)庄内藩領のうち2万石を分与されたことに始まる。

 

 忠恒の子の2代藩主・忠予の嫡男・忠英が享保17年(1732)盲目となったために廃嫡され、忠勝の弟・了次の玄孫・忠休が養嗣子となり、同年中に家督を相続した。 
 
 忠休は延享4年(1747)奏者番となり幕政に参与、翌年には寺社奉行を兼任する。しかし出費が嵩むようになり藩の財政は悪化する。

 

 寛延2年(1749)養嗣子としていた忠英の長男・忠郷が16歳で死去、忠休の実子(水野忠体)と後継争いになっていたこともあり、藩医による毒殺説もある。代わって忠郷の弟・忠起が嫡子となった。

 

 寛延4年(1751)忠休に次男(忠崇)誕生。

 

 宝暦2年(1752)忠休は藩政改革として家臣の俸禄借上制を実施したが反発にあい失敗、忠起との関係も悪かったこともあり家中が分裂、反対派の引退勧告やストライキに見舞われるが、宗家の力を借りて鎮圧、幕府に3千両を借用して窮状を凌いだ(宝暦騒動)。

 

 宝暦10年(1760)忠休が若年寄に就任。

 

 明和4年(1767)反対派の盟主・忠起が33歳で亡くなり、晴れて忠休の実子・忠崇が世子となる。

 

 安永8年(1779)忠休は上野国内に5千石を加増され、松山藩は2万5千石となる。さらに築城を許され、藩庁が松山城となった。

 

 天明7年(1787)忠休は74歳で亡くなり、忠崇が家督を相続した。なお、忠起の孫・忠恕は後に別家を立て、幕府旗本寄合となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

松山藩及び築城の沿革

 

 中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す。江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝公の遺命により第三子酒井忠恒公に荘内の所領の中、中山村外35ヶ村及び村山郡の中、左澤地方74ヶ村併せて知行2万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す。正保4年(1647)12月11日その許可を得たり。依って寛文元年(1661)中山地内稲荷沢古館の跡を選び此処に館を構築し中山陣所と公称し政庁を開く。翌2年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ岡より移駐し鶴ヶ岡亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す。
 超えて第三代藩主酒井石見守忠休公幕閣に列し若年寄の重職を歴任す。安永8年(1779)12月15日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上洲の地桐生地方5千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す。以後松山藩2万5千石の表高となる。
 依って宗藩鶴ヶ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右エ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1781)5月工事に着手す。以来巨額の工費と人力を動員し天明7年(1787)9月に至り本丸仮御殿を落成し第一次の築城工事を終わる。時巳に忠休功逝去し第四代忠崇公之に替る。以来荘内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る。時に藩主第七代紀伊守忠良公たり世情まさに王政復古の動乱期に当り慶應4年(1868)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る。
 明治元年(1868)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城池没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る。
 実に創藩以来200年余築城以来80有余年に亘る松山藩の命運であった。