播磨 庄山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①遠景

イメージ 2②遠景

イメージ 3③古城図(文化8年)

 

訪問日:2009年3月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 小寺政隆は延徳3年(1491)赤松氏再興を果たした赤松政則の重臣である父・豊職の死去により家督を相続した。

 

 明応2年(1496)主君・赤松政則が亡くなり、養子の義村が家督を相続した。重臣の政隆や浦上則宗そして別所則治らがこれを支えることとなったが、浦上則宗と一族の浦上村国が対立して内乱となるなど混乱する。

 

 文亀2年(1502)には浦上則宗が亡くなり、村宗が相続する。しかし、村宗は次第に主君・義村と対立するようになり、永正15年(1518)居城・三石城に退去してしまう。

 

 これに怒った義村が備前に出陣し、三石城を攻撃するが、村宗に与した中村則久により逆に美作岩屋城を奪われてしまう。

 

 村宗に備えるためか永正16年(1519)政隆は御着城を築城して居城を姫路城から移し、姫路城は嫡男・則職に守らせた。

 

 永正17年(1520)義村の命で則職が岩屋城を攻めるが、援軍に来た村宗の重臣・宇喜多能家に翻弄され、一族の庄山城主・小寺祐職と2人の子が討死するという大敗を喫する。

 

 赤松氏の権威は失墜し、逆に村宗の播磨侵攻を許し、永正18年(1521)義村は捕らえられ室津城に幽閉され、同年中に殺害されてしまう。

 

 大永3年(1523)則職は浦上村国らとともに義村の遺児・政村を擁して村宗を播磨に迎え撃つが、大敗を喫する。

 

 享禄3年(1530)にも村宗の侵攻を受け、庄山城で迎え撃った政隆だったが討死してしまう。則職が父に代わり御着城に入り家督を継いだ。

 

 浦上氏や別所氏が独立を志向する中、政隆は終始主君・赤松氏を支えたが、則職はその後政村と距離を置くようになる。

 

 

以下、現地案内板より

 

庄山城跡

 

 姫路市を代表する中世山城の遺構で、14世紀に赤松貞範によってはじめて築城されたという。城跡は谷外小学校の北の城山(標高194m)の山頂から山腹一帯にかけて構築されている。縄張りは、東西500mにわたって連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に左右両翼に張り出した尾根と南に伸びる支脈を利用して諸郭を配している。山頂から山腹にかけては石垣、土塁、堀切二本、井戸二基、城戸跡が残っている。

 

平成8年10月  姫路市教育委員会