播磨 樋山陣城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①国分寺跡からの遠望

イメージ 2②国分寺跡からの遠望

 

訪問日:2016年3月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 天正7年(1579)12月、織田信忠・羽柴秀吉の約1万が大塩山城を攻略し、別所の安養寺や民家を焼き払い、御着城の天川を挟んだ南側の樋山に陣を敷いた。

 

 「御着落城之事」によると、御着城は小寺政職をはじめとする一族郎党ら約2千が籠り、弓鉄砲の激しい応酬となったが、政職の武将・原重親の矢が秀吉の千成瓢箪の馬印を射抜き、秀吉は陣を引いたという。

 

 翌日、秀吉は前日の恥を雪がんと総攻撃を仕掛け、多勢に無勢の御着城は落城し、政職は英賀城そして毛利氏領の備後鞆の浦に落ち延びていった。

 

 「御着落城之事」では天正6年(1578)7月のこととされるが、冒頭の天正7年末という有力説や天正8年説もあり、確定していない。