但馬 生野代官所(生野新城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①生野義挙跡碑

イメージ 2②生野義挙跡

イメージ 3③代官所跡から生野城

 

訪問日:2016年2月

 

所在地:兵庫県朝来市

 

 文久3年(1863)会津藩と薩摩藩が孝明天皇を動かして、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任し、長州藩と三条実美ら攘夷派公卿7人は京都から追放された。(八月十八日の政変)

 

 但馬国生野天領の豪農・北垣晋太郎は私塾・青谿書院で学び、「農兵論」を唱え、農兵を募って海防にあたるべしとした。生野代官の川上猪太郎がこれに好意的だったこともあり、生野では攘夷の気風が高まっていた。

 

 福岡藩を脱藩した平野国臣らは但馬で声望高い北垣と結んで生野での挙兵を計画、同年9月19日に但馬で会合を開き、10月10日挙兵と定め、長州で保護されている七卿の1人を総帥として長州から兵力と武器弾薬を提供させると決定する。

 

 9月28日、長州に入った平野と北垣は七卿や長州藩世子・毛利定広と会い、七卿の沢宣嘉を総帥に迎えることとなったが、長州藩として挙兵させることはできなかった。

 

 10月2日、沢・平野・北垣と奇兵隊2代目総監の職を投げ打って(高杉晋作は謹慎中)参加した河上弥市ら尊攘派浪士らを加えた37名で但馬を目指し出港する。

 

 10月11日、生野の手前の延応寺に本陣を置くが、ここで彼らに先立って大和で挙兵した天誅組が9月末に壊滅したことを知る。平野や北垣らは挙兵の延期を主張したが、河上ら強硬派の主張が通り、決行されることとなった。

 

 10月12日、生野に入った一行は、代官・川上が出張中だったこともあり無抵抗の生野代官所を占拠した。そして天領一帯に募兵を呼び掛けるとその日の正午には2千もの農民が生野に集結したという。

 

 しかし天誅組の変直後ということで幕府の対応は早く、翌13日には豊岡藩・出石藩・姫路藩が生野に出動してきた。するとその夜には沢らが本陣から脱出して姿を消してしまう。

 

 強硬派の河上は討死覚悟で布陣したが、不甲斐なさに怒った農民たちに襲われ自害した。平野は兵を解散させ、因幡に向かうが捕らえられ、後に殺害された。こうして生野の変はあっけなく終息した。

 

 北垣はというと無事に因幡へ逃れ、ついで京都、江戸を経て長州に潜伏、後に鳥取藩に仕官した。戊辰戦争では農兵隊である山国隊を率いて山陰道鎮撫使・西園寺公望に供奉、北越戦争にも出陣した。

 

 さらに高知県県令・京都府知事・北海道庁長官・貴族院勅任議員などを歴任した。京都府知事時代の明治23年(1890)には東京遷都などにより活力を失った京都の勧業政策として琵琶湖疎水を完成させた。

 

 明治29年(1896)には維新の功により男爵位を授けられ、大正5年(1916)京都で死去した。(満79歳)

 

 

以下、現地案内板より

 

生野代官所跡(生野平城跡)

 

 天文11年(1542)山名祐豊は生野銀山経営の拠点として生野城を築城しました。三層の天守閣、隅櫓、外堀をそなえた城で、侍屋敷、町屋、寺社も整い、繁盛したと記録に遺されています。
 その後、銀山の経営は太田垣、織田、豊臣と変わり、関ヶ原の戦いを経て徳川氏に帰属し、この城の本陣を代官所としました。寛永6年(1629)には天守閣及び隅櫓を取り崩しましたが、270年にわたって銀山経営の中心でした。
 明治維新により銀山は政府直轄となり、明治2年(1869)生野県設置とともに、代官所を県庁舎としました。
 明治4年(1871)生野県が豊岡県に統合されると同時に建物は除去され、城壁と外堀のみが残りましたが、大正末期には全部が取り壊されました。

 

平成27年5月  朝来市教育委員会