但馬 生野城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①第Ⅰ郭とⅡ郭

イメージ 2②第Ⅰ郭からⅡ•Ⅸ郭

イメージ 3③第Ⅲ郭からⅡ郭

イメージ 4④第Ⅲ郭からⅨ郭

イメージ 5⑤第Ⅸ郭からⅢ郭

イメージ 6⑥びわの丸からの遠望

 

訪問日:2016年2月

 

所在地:兵庫県朝来市

 

 生野銀山は大同2年(807)に初めて銀が採れたと伝わるが確証は無く、確かな史料としては天文11年(1542)但馬守護・山名祐豊によるものが最初である。しかし祐豊は銀山経営に積極的ではなかったようだ。

 

 弘治2年(1556)山名四天王の竹田城主・太田垣朝延が山名氏に叛き、生野城を強奪して配下の京正阿弥・杉原七郎左衛門を生野城に入れて銀山経営を強化すると銀の生産量は飛躍的に高まった。今井宗久ら堺の商人らがこれに出資していたという。

 

 足利義昭を奉じて入京した織田信長は当時友好関係にあった毛利元就の要請により、永禄12年(1569)羽柴秀吉を但馬に侵攻させると、朝延の子・輝延は祐豊らとともに信長に降伏した。

 

 天正元年(1573)信長が義昭を追放すると織田・毛利の関係は悪化し、毛利氏の吉川元春が但馬に侵攻し、輝延は降伏した。次いで天正3年(1575)祐豊が元春と和睦し(芸但和睦)、但馬は織田氏に敵対した。

 

 天正5年(1577)秀吉の弟・羽柴秀長が但馬に侵攻し、竹田城は落城して輝延は播磨へ落ちていったという。生野銀山も織田氏の手に落ち、天正6年(1578)信長の代官として生熊国利が派遣された。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 生野城   遺構について

 

 応永34年(1427)但馬の守護職 山名時煕(宗全の父)は、4代将軍 足利義持の命により、播磨の守護職 赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
 標高601mの山頂には、36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪がつづき、尾根の要所には、多数の別郭や堀切りを構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。
 570余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切りがよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。又、城跡からの眺めはすばらしく、南の方向には、赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えて万全の構えを示していたことがよくわかります。

 

生野町教育委員会