播磨 宮ノ上要害 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①宮ノ上要害

イメージ 2②宮ノ上要害

イメージ 3③宮ノ上要害

イメージ 4④宮ノ上要害の眺望

イメージ 5⑤鷹ノ尾城を望む

 

訪問日:2011年2月

 

所在地:兵庫県三木市

 

 元亀元年(1570)別所安治が亡くなり、幼年の長治が跡を継ぐと、安治の弟・吉親と重棟がその後見を務めることとなった。

 

 天正5年(1577)織田氏の武将・羽柴秀吉の中国攻めに当初協力していた別所氏は、加古川城での軍議に吉親を派遣するが、そこで秀吉と諍いとなり、戻った吉親は長治を説き伏せて別所氏は毛利氏に味方して天正6年(1578)三木城に籠った。

 

 実際は毛利氏の調略が成功したということだろうが、これに反対した重棟は織田方に留まった。吉親は出城の鷹ノ尾城を、長治の弟・友之が宮ノ上要害を守備した。

 

 別所氏は善戦したものの次第に追い詰められ、天正8年(1580)1月6日には宮ノ上要害が、11日には鷹ノ尾城が攻略され、ともに三木城に撤退した。

 

 14日、重棟が長治・吉親・友之の切腹で城兵の命は助けると勧告する。しかし吉親は徹底抗戦を主張して自らの屋敷を放火すると、激怒した城兵に殺害された。

 

 17日、長治と友之が切腹して三木合戦は終結した。長治23歳、友之21歳だったという(信長公記では26歳、25歳)。吉親の子のうち吉成が生き延びて子孫は磯野性を名乗っている。