陸奥 八戸城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸土塁

イメージ 2②角御殿表門

イメージ 3③移築東門(根城跡)

イメージ 4④絵図

 

訪問日:1999年5月

 

所在地:青森県八戸市

 

 根城南部氏は引き続き南朝方として活躍したが、明徳3年(1392)南北朝合一が成立すると、南部政長の孫・政光は足利方にあった三戸南部氏の南部守行の勧めで北朝に帰順した。

 

 その後は南部氏の主導権は三戸南部氏が握り、根城南部氏は八戸氏を称し、八戸政義は三戸南部利直が初代藩主となった盛岡藩の家老となった。

 

 政義の子・直政が嗣子なく急死し、一族の直義が家督を継いだが、寛永4年(1627)減封の上、遠野に移された。

 

 八戸は三戸南部氏の直轄地となったが、寛文4年(1664)2代藩主・南部重直が嗣子を定めぬまま病没し、盛岡藩10万石は2人の弟、七戸重信の本藩8万石、中里数馬(南部直房)の八戸藩2万石に分割された。直房は八戸城を修築し、城下町の整備に取り組んだ。

 

 八戸藩9代藩主・信順は薩摩藩8代藩主・島津重豪の14男で、兄弟に長男の9代藩主・島津斉宣、次男の豊前中津藩主・奥平昌高、越前丸岡藩の養嗣子・有馬一純、13男の筑前福岡藩主・黒田長溥らがいた。

 

 信順は薩摩藩で起きた嫡子・島津斉彬の相続を阻み弟の久光を擁立せんとしたお由羅騒動では黒田長溥とともに斉彬に継がせるよう幕府に運動した。

 

 慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発、島津氏出身の信順は奥羽越列藩同盟から仮想敵として圧力を受けるが、これをうまくかわしながら官軍方の久保田藩と密に連携して難局を乗り切り、参戦することなく藩の存続に成功した。

 

 

以下、現地案内板より

 

八戸城

 

 八戸城は、馬渕・新井田両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。
 建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が糠部郡八戸に根城を築いたが、その後間もないころに、その孫信助が築いた中館がこれであろうという。この一族は根城・中館および新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。戦国時代の末に、三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内七郡を支配するようになった。その子利直は、寛永4年(1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事・普請をしたと伝える。城下の西側には根城町の商家を移して三日町・十三日町・二十三日町を、また東側には新田町の商家を移して八日町・十八日町・二十八日町をつくり、現在の市街のもとを作ったという。
 しかし、当城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直が、寛文4年(1664)世継ぎを定めないまま没したため、幕府が新たに弟重信に盛岡八万石を、同じく弟南部直房に八戸二万石をあたえたことにより、八戸藩が誕生した後のことである。
 その領地は三戸郡・九戸郡・志和郡のうち八十三ヵ村であり、この図は弘化4年(1847)ころのものである。