陸奥 根城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①復元主殿

イメージ 2②本丸虎口

イメージ 3③空堀

イメージ 4④空堀

イメージ 5⑤空堀

イメージ 6⑥模型

 

訪問日:1999年5月

 

所在地:青森県八戸市

 

 根城南部氏は南部氏初代・光行の3男・実長を祖とし、甲斐国波木井郷を領して波木井氏を称し、実長の嫡男・実継が陸奥に移り、その子・長継は宗家3代・政行の孫・南部師行を養子に迎えた。

 

 師行は元弘3年(正慶2・1333)宗家の実兄・時長や実弟・政長らとともに鎌倉攻めの新田義貞に従い武功を挙げ、同年北畠顕家に従い多賀城に下向した。そして師行は糠部郡の郡代として八戸に入り根城を築く。

 

 翌建武元年(1334)執権北条氏残党の安達高景・名越時如らが安東氏と連携し、出羽秋田の湊の城、その後津軽大光寺城・持寄城に籠った。鎮圧に難渋した顕家は師行らに調略を命じ、外ヶ浜明師・安東祐季らを寝返らせ勝利に貢献した。

 

 建武2年(1335)足利尊氏が新政から離反すると顕家は陸奥を離れ上京、師行は根城を政長に任せ顕家に代わり多賀城に入って尊氏が派遣した奥州管領・斯波家長と対峙した。

 

 翌延元元年(建武3・1336)尊氏を京から追った顕家が陸奥に戻り、師行は政長・信政父子に遺言を残して顕家のもとに馳せ参じた。

 

 延元2年(建武4・1337)足利方に多賀城を落とされ霊山城に移り、同年顕家らとともに京へ向け出陣し、年末には鎌倉を攻略した。

 

 延元3年(建武5・1338)新春早々鎌倉を発ち美濃で足利方に大勝するが、5月22日、石津の戦いで顕家とともに討死した。

 

 家督は政長が継ぎ、その家系は遠野南部氏として明治維新に至った。師行は南朝への忠義を賞され、明治29年(1896)正五位を追増され、翌年には士族とされていた遠野南部氏当主・南部行義が男爵を授けられた。

 

 

以下、現地案内板より

 

八戸市史跡根城の広場

 

 根城は建武元年(1334)南部師行により築城されたと伝えられています。根城の南部氏は、南北朝時代には奥州における南朝方の中心的存在として活躍しており、その領地は糠部郡と呼ばれた広大な地域の中や津軽、秋田県の比内・仙北・鹿角、岩手県の閉伊、遠野にも認められます。しかし、南朝方が劣勢になるに従い、根城の南部氏も次第に勢力が弱まり、寛永4年(1627)には岩手県の遠野に移封となりました。この城跡は、昭和16年12月13日に国史跡に指定されています。(指定地総面積212,795㎡)
 現在、根城には、本丸・中館・岡前館・東善寺・沢里館等の郭や多くの堀が良好に残っており、このうち、本丸については、発掘で発見された建物跡を基に立体復元も行われております。

 

八戸市教育委員会