陸奥 横田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

 

訪問日:1998年8月

 

所在地:岩手県遠野市

 

 藤姓足利氏の足利有綱の4男・広綱が下野国安蘇郡阿曽沼(佐野市浅沼町)を領して阿曽沼氏を称し、文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐における戦功により、陸奥国閉伊郡遠野保の地頭職に任ぜられた。

 

 広綱の嫡男・朝綱は下野の本領を継ぎ、弟の親綱が遠野保を相続して護摩堂山に横田城を築いて土着した。親綱4世の孫・朝綱は陸奥国司・北畠顕家に遠野保を安堵されている。

 

 天正の初め、阿曽沼広郷は拠点を鍋倉城に移し活躍したが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、仕置は免れたものの南部氏の配下に入ることとなった。

 

 慶長5年(1600)広郷の子・広長は南部利直に従って上杉景勝討伐のため最上に出陣していた間に、一族の鱒沢城主・鱒沢広勝ら3人が南部氏と結んで反逆し、これに与さなかった火渡館主・火渡玄浄を討った。

 

 広長は戦いを終え急ぎ引き返したが、鍋倉城を奪われたうえ、脱出を試みた妻子を討たれ、舅である世田米阿曽沼氏の阿曽沼信康を頼って伊達領である気仙郡世田米城に逃れた。

 

 広長は伊達政宗の支援を得て信康とともに3度にわたり遠野に攻め込み、広勝を討ち果たしたものの、鍋倉城の奪回はならず、そのまま生涯を終え、遠野阿曽沼氏は断絶した。

 

 

以下、現地案内板より

 

横田城

 

 建保年中(-1213)阿曽沼広綱が遠野十二郷を統治するために築いたと伝えられる。遠野盆地を一望し、西に高清水山を縫い猿ヶ石川と耕地を城下において周囲に濠をめぐらし、中世の典型的な山城の形状を成していた。
 城内に薬師堂と修験の護摩堂があったので、別名薬師城、護摩城とも言われ、13代広郷が鍋倉城に移るまで約360年間の歴史がその遺構から偲ばれる。

 

遠野市