武蔵 菅谷城(菅谷館) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本郭虎口

イメージ 2②本郭出桝形土塁

イメージ 3③二ノ郭門跡

イメージ 4④畠山重忠像

イメージ 5⑤復元木橋から西ノ郭

イメージ 6⑥搦手二重土塁

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:埼玉県比企郡嵐山町

 

 畠山氏は坂東八平氏の秩父氏の一族で、江戸氏・河越氏らと同族である。畠山重能は源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が討死してからは平氏に従っていた。

 

 治承4年(1180)義朝の嫡男・頼朝が挙兵した時、重能は大番役として京都にあり、17歳の嫡男・重忠が平家方として頼朝方討伐にあたり戦功を挙げたが、後に江戸重長・河越重頼とともに頼朝に帰服した。

 

 その後は、寿永3年(1184)源義経らとともに宇治川の戦いや一の谷の戦いで武蔵丹党を率いて勇名を轟かせ、その一方で平家方に留まっていた重能は表舞台から消えていった。

 

 平家滅亡後、頼朝と義経が対立し、武蔵留守所惣検校職にあった義経の舅・重頼が失脚して嫡男・重房とともに誅殺され、重忠が検校職となった。

 

 その後も文治5年(1189)奥州征伐、建久元年(1190)の頼朝上洛では先陣を務めるなど、幕府創業の功臣として活躍した。

 

 正治元年(1199)頼朝が急死すると、翌正治2年(1200)梶原景時の変、建仁3年(1203)比企能員の変といった幕府御家人たちのサバイバルレースの末、頼朝の舅である北条時政が実権を握る。重忠は舅である時政に従っていた。

 

 元久元年(1204)時政と後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅の京都邸で、将軍・源実朝の妻・坊門信子を迎えるため上洛した御家人たちを歓迎する酒宴が執り行われた。

 

 そこで朝雅と重忠の嫡男・重保(時政と先妻の外孫)が争いを起こす。翌日、ともに上洛していた時政と牧の方の息子・北条政範が急死、この知らせが同時に鎌倉に届く。

 

 翌元久2年(1205)朝雅が牧の方に重保を讒訴、牧の方は時政に重保に叛意ありと時政に訴える。時政は娘・北条政子や息子・北条義時の反対を押し切り、6月22日、重保を討たせた。それと同時に鎌倉へやって来る重忠誅殺の大軍を派遣した。

 

 そうとは知らぬ重忠は、鎌倉に騒動があると聞き、「いざ鎌倉」とばかりに次男・重秀ら140騎ばかりで菅谷館を発っていた。

 

 22日午後、二俣川で討伐軍と遭遇、今朝重保が討死したこと、自分に追討軍が差し向けられたことを知る。重忠は潔く戦って死ぬことを決意、寡兵で大軍に立ち向かい討たれていった。(享年42)

 

 その後、足利義兼の庶長子・義純が重忠の未亡人である時政の娘(あるいはその娘)を娶り、重忠の旧領と畠山姓を継承した。これにより元祖畠山氏は滅亡し、清和源氏・足利一門の名門・畠山氏が誕生した。

 

 一方、目黒氏や中根氏・藤田氏など、重忠の遺児や兄弟の子孫を称する氏族も複数存在する。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 比企城館跡群  菅谷館跡

 

 菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。
 元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1588)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。
 現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは、戦国時代のことと考えられます。
 昭和48年(1973)5月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。

 

平成20年3月 埼玉県教育委員会

 

 

畠山重忠と菅谷館跡

 

 畠山重忠は、長寛2年(1164)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。
 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の成能が平氏に仕えていたため、弱冠十七歳の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
 頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏の謀殺されました。四十二歳でした。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、元久二年(1205)六月十九日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月二十二日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。
 嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに重忠の館があったことも充分考えられます。
 現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改修されたものと考えられています。

 

埼玉県