①本郭虎口
②本郭出桝形土塁
③二ノ郭門跡
④畠山重忠像
⑤復元木橋から西ノ郭
⑥搦手二重土塁
そこで朝雅と重忠の嫡男・重保(時政と先妻の外孫)が争いを起こす。翌日、ともに上洛していた時政と牧の方の息子・北条政範が急死、この知らせが同時に鎌倉に届く。
一方、目黒氏や中根氏・藤田氏など、重忠の遺児や兄弟の子孫を称する氏族も複数存在する。
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1588)に山内上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは、戦国時代のことと考えられます。
昭和48年(1973)5月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。
平成20年3月 埼玉県教育委員会
畠山重忠は、長寛2年(1164)、畠山荘司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の成能が平氏に仕えていたため、弱冠十七歳の重忠も平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷の合戦では、かずかずの手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。
頼朝の死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏の謀殺されました。四十二歳でした。鎌倉時代の史書「吾妻鏡」によると、元久二年(1205)六月十九日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い「小(男)衾郡菅谷館」を出発し、同月二十二日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。
嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。城郭の西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに重忠の館があったことも充分考えられます。
現在この城郭は、縄張りや土塁・空堀の構造から推定して、戦国時代末頃に最終的に改修されたものと考えられています。
埼玉県
![](https://ssl-stat.amebame.com/pub/content/9477400408/amebapick/item/picktag_autoAd_302.jpg)