武蔵 小倉城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①3郭石垣

イメージ 2②3郭から本郭を望む

イメージ 3③本郭切岸

イメージ 4④本郭北虎口

イメージ 5⑤桝形虎口

イメージ 6⑥大堀切

 
訪問日:2015年11月

 

所在地:埼玉県比企郡ときがわ町

 

 ときがわ町は平成18年(2006)玉川村と都幾川村が合併して誕生した。小倉城は旧玉川村エリアにあり、その歴史は不明で、城主は後北条氏の重臣・遠山氏説や松山城主・上田氏説がある。

 

 旧都幾川村エリアには源頼朝や徳川将軍家が帰依したという慈光寺がある。宝亀元年(770)鑑真に師事した道忠によって創建され、全盛期には75坊が軒を連ねる大寺院であった。小倉城から西南西に7~8kmのところにある。

 

 慈光寺HPによると、戦国時代に僧兵を傭し、太田道灌らに焼討されたとあり、長尾景春に味方していたと思われ、小倉城は慈光寺の出城であった可能性もあるのではないかと考えた。

 

 上田氏や遠山氏はその後北条氏の時代になってからやって来て、城を現在残るように整備したのではないだろうか。

 

 特に遠山氏は槻川を隔てた遠山寺に遠山光景の墓が、小倉城の登山口でもある大福寺には光景室の位牌が伝わっており、城主であった可能性は高い。

 

 上田氏は道灌と同じく扇谷上杉氏の家臣であったが、上杉氏の滅亡後は後北条氏の家臣となっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 比企郡城館跡群  小倉城跡

 

ときがわ町大字田黒字城山1184ほか
平成20年3月28日指定

 

小倉城跡について

 

 小倉城跡は、外秩父の山地と関東平野の境界にあり、大きく蛇行を繰り返す槻川の先端に構えられている。城跡は槻川―都幾川―古荒川水系を基本に、陸路は鎌倉街道上道と山根筋(八王子―鉢形を結び上州へ抜けるルート)の中間にあたり、中世の幹線ルートを意識した位置どりをとっている。
 縄張り構造の大きな特徴は、自然地形を巧みに取り込むことにより、同心円的に画された総構空間の中心に、居館と目される山麓の大福寺平場と、その背後に展開する梯郭式の要害部分が構成されることである。
 要害部分は、南北方向に走る主尾根に沿って、郭1と郭2を並列して配置し、郭1南東と郭2南西を堀切り、郭3、郭4を設ける。郭5は、井戸沢と呼ばれる谷に面している。
 郭1は、尾根の最高所に位置し、すべての導線がこの郭に収斂すること、土塁の規模が大きく、虎口の構造も厳重であることから、主郭(本郭)として位置づけられる。この他、横堀とセットになったクランク状の塁線の折れ、それに組み合わされた竪堀等の技術的に優れた普請が行われている。
 城跡の北東へ1.5㎞の嵐山町平沢寺には、長享4年(1488)の須賀谷原の合戦の折に山内上杉方の陣所がおかれている。江戸時代の諸記録では、「新編武蔵風土記稿」に、後北条氏重臣遠山氏、「武蔵誌」では、比企戦国史に重要な位置を占めた上田氏を城主としているが、最新の発掘調査による城跡の年代推定は、16世紀前半~後半と判明している。
 この城の最大の特徴は、基盤層に結晶片岩の岩盤を持つことに由来する、大規模な石垣普請にある。本郭土塁内裾や虎口部、郭3外面を中心に随所に見られ、総延長150m以上、最大高5mにおよび累々と積まれた様は圧巻であり、「石造りの山城」と呼ぶべき景観である。
 この城は、石垣、縄張の点で優れた遺構を今日に伝えており、東国の戦国期中小規模山城を代表する史跡である。また、木の繁茂した現在でも青山城跡や菅谷城跡を目視できる位置関係にあり、山陵と河川の織りなす景観は、比企地方の代表的な中世的景観を今なお色濃く残している。

 

ときかわ町教育委員会 埼玉県教育委員会