武蔵 杉山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①南三郭と馬出

イメージ 2②南二・三郭

イメージ 3③本郭西側

イメージ 4④本郭東側

イメージ 5⑤外郭から東二•三郭

イメージ 6⑥北二郭

 

訪問日:2015年11月

 

所在地:埼玉県比企郡嵐山町

 

 この城も築城主体が謎で、近年は後北条氏ではなく、山内上杉氏によるものだという説が有力だそうだ。鉢形城といい山内上杉氏はかなり築城に精通しており、あるいは後北条氏の方がその影響を受けたのかもしれない。

 

 上杉顕定は越後・信濃守護の上杉房定の次男で、寛正7年(1466)関東管領で山内上杉氏当主・上杉房顕が武蔵五十子陣で陣没したが跡継ぎがなく、将軍・足利義政の命令で13歳で山内上杉氏の家督を継いだ。

 

 享徳3年(1455)に鎌倉公方・足利成氏が房顕の兄・憲忠を暗殺したことに端を発した享徳の乱は収束の気配を見せず、実父・房顕も相続には反対であった。

 

 文明8年(1476)家臣・長尾景春が古河に移った成氏と結んで叛き苦境に陥る。ここで扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が登場し、景春を追い詰める。

 

 顕定と扇谷上杉氏の定正は文明10年(1478)成氏と和睦し、道灌は孤立した景春の鉢形城を攻略した。道灌の活躍で、扇谷上杉氏が台頭するようになった。

 

 文明14年(1482)父・房定が仲介して幕府と成氏の和睦が成立し、30年にわたる長享の乱は終結したが、文明18年(1486)定正が声望を集めた家宰の道灌を暗殺してしまう。

 

 これを契機に山内・扇谷の両上杉氏の対立は決定的なものとなり、長享元年(1487)長享の乱が勃発する。翌長享2年(1488)顕定は景春や成氏の跡を継いだ2代目古河公方・足利政氏を味方につけた定正と杉山城周辺の実蒔原・須賀屋原・高見原で3度にわたり戦うが、いずれも敗北してしまう。

 

 しかし、道灌を誅したことにより、定正の求心力は低下を続け、顕定は実家・越後上杉氏の支援もあり、本拠・鉢形城を保ち続けることができた。

 

 明応3年(1494)定正は前年に、堀越公方を滅ぼして伊豆を領した韮山城主・伊勢宗瑞(北条早雲)の援軍を得て、再度出陣して顕定と荒川を挟んで対峙、しかし、定正は落馬して急死してしまい、伊勢軍も撤退した。

 

 すると古河公方・政氏が顕定に寝返り、攻勢に出た顕定は、明応5年(1496)宗瑞の弟・伊勢弥二郎の小田原城を攻略、さらに定正の跡を継いだ河越城の上杉朝良と7年にわたり対峙した。

 

 永正元年(1504)駿河守護・今川氏親と宗瑞の援軍を得た朝良と顕定・政氏連合軍が立河原に戦うが2千人の討死を出して大敗、しかし、越後守護を継いだ弟の房能の命を受けた守護代・長尾能景の援軍を得て、兵を休めた朝良の河越城を急襲、翌年に朝良が降伏し、長享の乱がようやく終結する。

 

 顕定は政氏の弟(上杉顕実)を養子として古河公方・関東管領体制の再構築を目指していた。だが、永正4年(1507)能景の跡を継いだ越後守護代・長尾為景(上杉謙信の父)が上条上杉氏の上杉定実を担ぎ、主君・房能を襲撃、房能は顕定を頼り、関東へ逃れる途中、為景の追撃を受け自害した。

 

 永正6年(1509)顕定は越後に攻め入り、為景と定実を越中に追放する。しかし、顕定の苛烈な越後統治は国人の反発を招き、翌永正7年(1510)為景らの反攻に遭い、越後から撤退を始めたが、為景方の追撃を受け討死した。享年57歳、実父が危惧した通りの戦に明け暮れた一生だった。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 杉山城跡   平成20年3月28日指定

 

 この城は、室町~戦国時代の築城と推定される典型的な山城である。総面積は7.6ヘクタールにも及び、急峻な丘陵を巧みに利用して十余の郭を理想的に配している。まさに自然の要害と呼ぶにふさわしい県内でも有数の城である。現存する遺構の保存状態も非常に良く、複雑に入り組んだ土塁や堀によって構成される城構えに当時の築城技術が偲ばれる。
 また、城の立地についても、北方で四津山城・高見城・越畑城に連絡し、南方に鎌倉街道を見下して、その遠方に小倉城を臨むという絶好の条件を備えている。当時の社会情勢から判断して、松山城と鉢形城とを連絡する軍事上の重要拠点であったと考えられる。
 築城年代や城主名等に不明な点も多いが、一説には、松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水の居城と伝えられている。

 

昭和61年3月  埼玉県教育委員会 嵐山町教育委員会