上野 小幡陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①小幡陣屋(整備中)

イメージ 2②小幡陣屋(整備中)

イメージ 3③小幡陣屋(整備中)

イメージ 4④楽山園

イメージ 5⑤陣屋町

イメージ 6⑥陣屋町

 

訪問日:2003年8月

 

所在地:群馬県甘楽郡甘楽町

 

 小幡藩織田氏もやがて財政難に苦しむようになる。明和元年(1764)7代目藩主となった織田信邦は吉田玄蕃を家老に登用し、藩政改革と財政再建を目指した。

 

 小幡藩では玄蕃をはじめ、多くの藩士が江戸八丁堀の私塾・柳荘を開く山県大弐の弟子となり、儒学や兵学を学んでいた。大弐は尊王思想を説き、大弐宅に寄宿する藤井右門はかつて宝暦事件に連座し、江戸攻略の軍法を説いていたという。

 

 明和3年(1766)玄蕃の政策に反対する用人の松原郡太夫らは玄蕃の失脚を謀り、大弐の門弟に大弐を謀反の疑いありと幕府に密告させ、大弐や右門が逮捕される。

 

 さらに松原らは、玄蕃が大弐らと謀反を企てていると信邦に讒訴し、慌てた信邦は幕府に無断で処分を下し、玄蕃を失脚させた。

 

 しかし幕府は小幡藩の対応を不適切として、明和4年(1767)8月21日、信邦に蟄居を命じ、実弟の信浮に家督を相続させた。そして織田氏は国主格を奪われ、出羽高畠(のち天童)に移封となった。家老・津田頼母ら3人が重追放、松原らは追放となった。

 

 翌8月22日、大弐と右門は処刑された。大政奉還のちょうど100年前の倒幕思想の先駆けとなる明和事件である。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定名勝  楽山園  甘楽町大字小幡字中門内 平成12年3月30日指定

 

小幡藩邸跡
 織田氏は初め福島に居たが、寛永19(1642)年、三代信昌は小幡に陣屋を築いて移住した。藩邸は旧小幡氏重臣熊井戸対馬守正満の屋敷を利用したものといわれている。ここは山紫水明の地で、水量豊かな雄川の段丘に位置している。
 織田氏は2万石の藩主として、8代約150年間統治に当たったが、明和事件によって明和4(1767)年出羽国高畑(山形県高畠町)に移封された。
 代わって松平氏が藩主となり、この藩邸を本拠として4代約100年つづいて、明治維新に至った。松平氏は親藩で、代々幕府の要職についたが、特に3代忠恵は嘉永元(1848)年「城主格」を与えられたので、この陣屋は小幡城とも呼ばれた。
 廃藩置県後、明治6(1873)年藩邸は他の旧藩有財産と共に競売された。そのため多くの建物が取り壊された。この時の払い下げ記録によると、藩邸の中心となっていた建物は、萱葺平屋建243坪(畳231畳・板戸59本・障子127本・襖30本)であった。なお、藩邸の古い平面図が残っている。
 今、往時を偲ぶ物は、わずかに土塁・空濠跡・井戸・石垣等だけである。

 

楽山園
 この庭園は、江戸時代初期織田氏が造ったもので、京都の桂離宮と同じ特色をもっている。楽山園とは「智者楽水 仁者楽山」(論語)の語句から名づけたといわれる。庭園は池泉回遊様式で、その水源は雄川堰である。
 広い昆明池を掘り、いろは四八の銘石を配し、築山には東屋を建て、熊倉山・紅葉山の借景によって、庭園美を盛り上げている。
 楽山園は、県内諸大名の庭園がほとんど消滅した今、往時を伝える唯一の庭園として貴重なものである。

 

甘楽町教育委員会