丹波 柏原陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①長屋門

イメージ 2②長屋門

イメージ 3③長屋門

イメージ 4④御殿

イメージ 5⑤太鼓櫓(移築)

イメージ 6⑥太鼓櫓(移築)

 
訪問日:1980年代後半

 

所在地:兵庫県丹波市(旧氷上郡柏原町)

 

 大和宇陀松山から丹波柏原に転封となった織田信休の三男・信旧(三代藩主)は長男・次男が相次いで早生したため、宝暦8年(1758)分家の高家旗本・織田信栄の次男・信憑を養子に迎えたが、同年中に三男・信応が誕生する。

 

 安永元年(1772)信憑に長男・信守が生まれる。天明3年(1783)信旧が亡くなり、信憑が家督を相続する。寛政元年(1789)信憑は信応を養嗣子に迎えた。

 

 しかし、信憑が61歳となった享和元年(1801)、信応は8歳の息子・信古を遺して44歳で亡くなり、信憑は実子の信守を嫡子とした。そして文化12年(1815)75歳になった信憑は長年にわたり大名としての責務に勤めたとして、従四位下に昇叙した。

 

 信憑・信守父子は正統な後継者たる信古を養嗣子に迎えることに抵抗したが、これに家臣の九里政敬らが反発し、文政6年(1823)やむなく信古を信守の婿養子とした(秘命騒動)。藩政は荒れ、文政7年(1824)には百姓一揆が起こっている。

 

 それでも信憑の気力は衰えず、文政10年(1827)87歳でようやく信守に家督を譲り、天保2年(1831)91歳で亡くなった。

 

 奢侈に走った信守の治世は長くは持たず、文政12年(1829)には信古に家督を譲っている。しかし、藩の財政は安定せず、天保4年(1833)には百姓による打ち壊し騒動も発生する。

 

 隠居しても信守の周辺は騒がしく、天保9年(1838)信守は側室・保野の居る江戸で暮らすことを望んだが、藩の支出増加を恐れた重臣たちは保野を柏原に呼び寄せることでこれを思い止まらせ、信守は必ず保野を連れて来るよう厳命した。

 

 一方で信守が保野に柏原に来ないように伝えていたため、早合点した保野の下女・しまが老中・脇坂安董に信守と保野が柏原に幽閉されようとしていると直訴した。

 

 天保10年(1839)幕府は騒動を起こしたという理由で信古に逼塞、信守に遠慮を命じた(保野騒動)。翌天保11年(1840)結局信守は江戸で亡くなる(享年69)。

 

 信古は男子に恵まれずに、天保13年(1842)信守の長男・信貞に家督を譲り、その信貞は子がないまま弘化3年(1847)末に亡くなり、翌弘化4年(1847)肥後宇土藩・細川氏から10歳になる信敬を末期養子に迎えて信古の長女鶴姫と娶せた。

 

 その信敬が嘉永6年(1853)18歳で亡くなると、柏原藩の重臣たちは鶴姫に再度婿養子を迎えようとするが、鶴姫はこれを拒んで髪を切り、翌年に筑前秋月藩黒田家から末期養子(信民)を迎えたものの、織田家の血筋は絶えた。