①春日門
②春日門
③西口関門
④西口関門
⑤宇陀川
⑥案内図
訪問日:2010年4月
所在地:奈良県宇陀市
元和元年(1615)大坂夏の陣の後、織田信長の次男・信雄(常真)は徳川家康より大和宇陀郡・上野甘楽郡など計5万石余を与えられた。その後、4男・信良に甘楽郡2万石を分知して、自らは京都で悠々自適の生活を送った。
寛永3年(1626)信良が父に先立って亡くなり2歳の百介(信昌)が家督を継ぐが、信雄は加賀藩前田家に仕えていた5男の高長を呼び戻し、百介の後見とした。
信雄が寛永7年(1630)に亡くなると(享年73)宇陀郡3万石余は高長が相続し、信昌家臣団から異論が出たものの幕府の裁定により相続が認められた。
高長は万治2年(1659)嫡子・長頼に家督を譲り、長頼は翌年、弟・長政に3千石を分知、寛文11年(1671)には陣屋を信雄が築いた長山の陣屋(旧大宇陀町役場一体)から春日に移した。
高長は万治2年(1659)嫡子・長頼に家督を譲り、長頼は翌年、弟・長政に3千石を分知、寛文11年(1671)には陣屋を信雄が築いた長山の陣屋(旧大宇陀町役場一体)から春日に移した。
元禄2年(1689)長頼の死により嫡男・信武が家督を継ぐが、苦しくなった財政を巡って、信雄以来の古参衆と高長からの加賀衆が対立を激化させる。
元禄7年(1692)古参衆の家老・生駒則正と中老・田中安定が信武の寵臣で加賀衆の中山正峯を不正蓄財で訴えた。
同年9月29日、怒った信武は安定を上意討ちで殺害、養子の市之丞も自害した。さらに同日、登城を拒んだ則正邸に藩士を遣わし、則正とその息子2人を討ち、弟・則之は自害した。
同年10月30日、信武は松山陣屋で突然自殺(享年40)、公式には乱心とされたが、幕府の調査が入って事件が明るみとなり、家督を継いだ嫡男・信休は翌元禄8年(1693)丹波柏原藩2万石に減封となり、宇陀松山藩は廃藩となり、以降この地は天領となった。
以下、現地案内板より
春日門跡
春日門跡は、松山城下町の出入口にあたる西口関門から続く大手筋正面に位置します。現在、門跡には虎口(出入口)を構成する東西2つの石垣積の櫓台が残っています。東櫓は東西4m以上、南北10m以上、高さ約6mの規模を持つ櫓台の南西隅に一段低く東西約4m、南北約7m、高さ約2mの櫓台が取り付きます。西櫓台は東西約6m、南北11m以上、高さ約4mを測ります。
大宇陀町教育委員会による調査の結果、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。また、現存する櫓台は
17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明しました。
築造当初の春日門は、現在とは異なり南北約10.5m、東西4m以上の東櫓台南端の西へ付け櫓がつく構造をとっています。西櫓台については、現在と同様な規模・構造をとるものと思われます。門は、東櫓(付け櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折れした所の2ヶ所に位置すると考えられます。
この段階の春日門東櫓は、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、櫓台の規模の大きさからして松山城下町の象徴的な建造物であったのでしょう。
大宇陀町教育委員会による調査の結果、春日門の築造は16世紀末から17世紀初頭にあり、松山城下の建設時に町人地と武家屋敷・城館とを分かつ虎口として造られたことが明らかとなりました。また、現存する櫓台は
17世紀後半の織田家宇陀松山藩時代の向屋敷・上屋敷(藩屋敷)造営に伴う再構築であることが判明しました。
築造当初の春日門は、現在とは異なり南北約10.5m、東西4m以上の東櫓台南端の西へ付け櫓がつく構造をとっています。西櫓台については、現在と同様な規模・構造をとるものと思われます。門は、東櫓(付け櫓)と西櫓の間と、櫓間を通り抜け、左折れした所の2ヶ所に位置すると考えられます。
この段階の春日門東櫓は、大手筋を貫いた視線が集中する位置にあり、櫓台の規模の大きさからして松山城下町の象徴的な建造物であったのでしょう。
大宇陀町
城下町「松山」の成立と発展
「松山町」(現大宇陀町松山地区)は、天正13年(1585)から宇陀郡に入部してきた、豊臣家配下の大名の城下町として成立しました。関ヶ原の戦いの後、当地の領主となった福島孝治の頃、町名も「松山町」と改称されたと考えられます。
元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、山間部からは薪炭や木材、特産品の吉野葛・宇陀紙を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。城下町としての機能を失ても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。
現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街なみを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。
元和元年(1615)に織田信長の次男信雄が宇陀を所領し、宇陀松山藩としての藩政が始まります。織田氏は、春日神社の北側に「御上屋敷」を、その周辺の城山山麓から山腹地にかけてと宇陀川の西側に武家地、現在の町役場付近に「長山屋敷」を設け、それらに挟まれる形で町人町を定めました。織田氏時代には400軒を数える商家が賑わいました。
元禄年間の織田氏転封の際、織田に関係する施設はすべて取り壊されたため、町人町だけが残りましたが、元来奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地とを結ぶ地の利を得ており、平坦部からは米や塩、その他の日常物資を、山間部からは薪炭や木材、特産品の吉野葛・宇陀紙を、また遠く熊野灘の鯖を平坦部に供給しました。城下町としての機能を失ても「宇陀千軒」と呼ばれる繁栄を誇り、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商などが軒を連ね、18世紀末の史料には、三と八の日に市が開かれ、遠く室生・曽爾・御杖・吉野からも客が来ると記されているように、広域な商圏をもつ在郷町であったことがうかがえます。
現在の松山地区には、今なお江戸時代後期から明治時代にかけての建築物等が数多く残っており、これらの建築物や歴史的街なみを保存し、後世に伝えて行かなければなりません。