近江 肥田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①肥田城跡

イメージ 2②崇徳寺

イメージ 3③案内図

 

訪問日:2012年8月

 

所在地:滋賀県彦根市

 

 以前は公民館のところに城跡碑があったはずだが、すでに無くなっており、後で調べてみると西北に少し走った畑の脇に移されていることがわかった。そちらのほうが正確な位置なのだろう。

 

 永禄2年(1559)正月、近江小谷城主・浅井久政の嫡男(15歳)が元服し、近江守護の六角義賢から一字をもらって賢政と名乗り、六角氏の宿老・平井定武の娘を正室に迎えた。

 

 ところが、わずか3か月後の同年4月、賢政は正室を実家に送り返してしまう。六角氏に対し宥和路線を歩む久政に対する反六角派のクーデターの始まりかもしれない。

 

 六角氏の報復が早速始まり、浅井方の百々氏の佐和山城、そして高野瀬秀澄の肥田城の攻撃を始める。佐和山城攻めに失敗した六角軍は、肥田城は失敗できぬとばかりに水攻めを行った。しかし同年9月、水攻めの堤が決壊して失敗に終わる。

 

 翌年8月、再び肥田城を攻撃するために野良田に着陣した六角軍に、後詰に駆けつけた初陣の賢政が大勝し、浅井氏は六角氏からの独立を果たす。

 

 浅井家臣団はまだ35歳だった久政に隠居を迫り、賢政が家督を相続する。賢政は永禄10年頃、美濃岐阜城主・織田信長と同盟を結び、その妹を正室に迎え、長政と改名する。