播磨 石弾城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①泊神社

イメージ 2②城跡碑

イメージ 3③城跡碑

 
訪問日:2012年8月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 かつて加古川市加古川町あたりは雁南荘と呼ばれ、雁南氏が地頭として入り、赤松氏に従っていた。享徳3年(1454)山名宗全が赤松氏の出仕を巡り、将軍・足利義政と対立し、家督を嫡男・教豊に譲り、但馬へ下向する。

 

 檀徳山城主・赤松則尚はこれを好機とみて挙兵して、教豊の子・政豊を攻めたが、宗全が但馬から援軍を出して享徳4年(1455)則尚を討ち取った。

 

 長禄2年(1458)赤松政則が後南朝から神璽を奪還した功で、赤松氏再興を果たす。石弾城はその過程で宗全により落城したものと思われる。

 

 雁南氏のその後はよくわからないが、政則に仕えた英賀城主・三木通安は雁南氏から通規を養子に迎えているので、雁南氏もどこかで存続はしていたのだろう。

 

 

以下、現地案内板より

 

石弾城址

 

 城主は、大井三樹伊豫守宰任従五位左京亮で、暦応2年8月30日雁南荘地頭職を給わり、この城の居を構えた。次宰の五男に雁南右衛門四郎勇という者がいて、永和元年5月5日父の跡を継いだ。正六位に任じられ、右馬助と号し赤松氏に従っていた。この勇の長男に雁南刑部太郎長という者がいて、享徳5年家督を継いで木村源五郎と号した。父にしたがって武功があったが、康正元年父勇討死の後、なおこの石弾城を固め守っていたが、長禄元年3月、山名宗全に攻められ討死して遂に落城した。

 

昭和59年3月  加古川市文化財保護協会

 

 

泊神社

 

神代に伊勢神宮の御神体の一つである御鏡がここに泊まり着いたことから泊神社が起こったといわれてい、あす。祭神は、天照大神・少彦名神(すくなひこなのかみ)・国懸大神(くにかかすのおおかみ)です。現在の社殿は、承応2年(1653)宮本武蔵の養子、宮本伊織が改築した時のものといわれています。一歩足を踏み入れると境内は広く、南北朝時代の石弾城(いしはじきじょう)の石垣と思われるものや宮本伊織寄贈の花崗岩製の灯篭、市指定文化財の36歌仙図絵馬が残っています。

 

加古川市市制60周年記念 平成22年6月