近江 佐和山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸城跡碑

イメージ 2②天守台石垣

イメージ 3③腰曲輪土塁

イメージ 4④千貫井

イメージ 5⑤二の丸上段土塁

イメージ 6⑥彦根駅からの遠景

 

訪問日:2015年10月

 

所在地:滋賀県彦根市

 

 佐和山城は石田三成の城として知られているが、その歴史は古く、鎌倉時代初期の近江守護職・佐々木定綱の6男・佐保時綱が砦を築いたのが始まりといわれている。

 

 応仁の乱の頃は六角氏の家臣・小川氏が在城していたが、その後京極氏家臣の磯野氏が城主となった。しかし磯野氏は浅井亮政(長政の祖父)に屈する形で臣従し、佐和山城は浅井氏の家臣が城代として守っていたが、永禄4年(1561)六角氏により攻略され、城代・百々隠岐守は自害した。

 

 その後、浅井長政はすぐに佐和山城を奪還し、磯野員昌を佐和山城に復帰させた。員昌は六角氏相手に数々の武功を挙げ、浅井軍の先鋒として活躍した。

 

 元亀元年(1570)の姉川の戦いにおいては、一時信長の本陣まで迫り、その猛攻は浅井三代記に「員昌の姉川十一段崩し」という逸話になって伝えられている。

 

 姉川の敗戦後、佐和山城は横山城に入った羽柴秀吉により、長政の本拠・小谷城との間を分断され孤立、8ヶ月にわたる籠城の末、翌元亀2年(1571)員昌は織田氏に降伏した。

 

 員昌は佐和山城を明け渡し、近江高島郡を与えられ、信長の甥・津田信澄を養子とした。信長は琵琶湖の周辺を宿老で固め、佐和山城には丹羽長秀が入った。(他に、中川重政・目賀田城、柴田勝家・長光寺城、佐久間信盛・永原城、明智光秀・宇佐山城、そして秀吉・横山城)

 

 しかし、天正6年(1578)員昌は信長から叱責を受け出奔、高島郡は信澄のものとなった。本能寺の変による信長や信澄の死後、高島郡に戻り、帰農して天正18年(1590)68歳で亡くなった。

 

 実子の磯野行信は三成、その後藤堂高虎に仕え、家名を存続させている。また、茶人・作庭家として名高い小堀遠州(政一)は外孫である。

 

 彦根市内の宗安寺に移築された大手門が残る。

 

 

以下、現地案内板より

 

佐和山城跡

 

 佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏佐々木定綱の6男時綱が、佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝える。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境目の城として攻防が繰り返された。やがて湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を確立し、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになる。
 信長・秀吉の時代にも佐和山城は近江の要衝を守る城として重視された。信長は佐和山城に重臣の丹羽長秀を配し、安土城築城までの間、佐和山城が安土城の機能を維持した。秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴、そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わらなかった。この間、佐和山城はしだいに整備され、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下には東山道に面して大手門が開き、2重に巡らされた堀の内外には侍屋敷・町屋そして足軽屋敷などの城下町が形成された。

 

彦根市教育委員会 文化財課