播磨 勝城(大日寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大日寺

イメージ 2②眺望

イメージ 3③朝日山

 

訪問日:2001年4月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 播磨島津氏15代の忠長は、龍野城主・赤松村秀に味方し、天文3年(1534)敵対する室津城の浦上景宗が石蜘蛛城に迫ると、籠城は不利と判断し、城を出て1km南東の朝日山に浦上軍を迎え撃つが敵わず討死した。享年34。

 

 忠長の長男・忠之は、天文23年(1554)失っていた本領の布施郷・下揖保庄の地頭職を赤松晴政より返付された。しかし、永禄12年(1569)晴政の跡を襲った村秀の子の政秀と小寺政職の家臣の黒田職隆・孝高(官兵衛)父子が戦った青山・土器山の戦いで討死したと伝わっている。(天正3年没とも)

 

 当時幼かった忠之の嫡男は後に義弘と名乗り、弟・忠之(父と同名)、長男・忠遠、次男・長井忠頼とともに豊臣秀頼に仕え、慶長20年(1615)大坂城落城後、同じく秀頼に仕えた政秀の子・祐高とともに城を出て網干大覚寺に籠るが、徳川方の池田利隆に囲まれ、祐高は自害、義弘らはさらに自領の下揖保庄まで逃れるが、ここも池田勢に追い詰められ、忠遠・忠頼兄弟は父に代わって自害した。

 

 隠居した義弘の跡の17代には義弘の3男・政之が相続し、忠遠の遺児・忠範も下伊保庄西の郷長となった。江戸時代、薩摩島津藩は室津港を参勤交代などの際の拠点としており、播磨島津氏は揖保川東岸に御座所を設け、道案内や上洛のお供の役割を果たした。

 


以下、現地案内板より

 

朝日山と大日寺

 

 朝日山(標高88m)。「播磨国風土記」には「応神天皇がこの山で大法(重大な法令)を発したので大法山という。斎明天皇の時(7世紀中頃)、大倭の千代勝部らが田をひらいて住んだので、いまは勝部岡と呼ぶ」という意味のことが書かれている。また周辺一帯は「大家里」や「大田里」と記され、古くから開かれた地域である。
 大日寺は、大化年中(645-650年)法道仙人の開基と伝える真言宗の古刹で、盛事には30余の坊舎が建ち並んだといわれる。また、鎌倉時代には信寂上人(法然上人の弟子)が招かれ、一時は播磨における浄土宗布教の中心になっていた。天文-元亀(1532-1570年)にかけての3度にわたる朝日山の合戦で寺は全焼したが、本尊の観音像だけは戦火をまぬがれたという。境内の五智如来石仏(向かって右より宝生、阿閃、大日、不空成就、阿弥陀の五如来)は龍野城主赤松政秀の寄進と伝える。また、十三重石塔(現在十一段しかない)は室町時代の造立とみられる。

 

姫路市教育委員会、姫路西ライオンズクラブ