播磨 石蜘蛛城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①立岡山

 

訪問日:2005年1月

 

所在地:兵庫県揖保郡太子町

 

 薩摩島津氏の祖・忠久は源頼朝に徴用され(後に島津氏は忠久を頼朝の落胤と主張した)、元暦2年(1185)日向国島津庄下司に任じられた。

 

 建久8年(1197)大隅・薩摩守護さらに日向守護に補任され、翌年、左衛門尉に任ぜられ、島津左衛門尉と名乗ったが、頼朝死後の建仁3年(1203)九州の地にありながら、比企能員の変に連座して守護職を没収された。

 

 鎌倉に戻った忠久はやがて御家人に復帰し、建暦3年(1213)には薩摩守護に再任された。さらに承久3年(1221)承久の乱の戦功により、越前守護職に任ぜられた。このとき、次男・忠綱が守護代に任命された。

 

 弘安2年(1279)忠綱の嫡男・忠行が播磨下揖保荘の地頭に任ぜられて移住し、立岡山に石蜘蛛城を築城して播磨島津家の居城とした。

 

 立岡山はその昔、応神天皇がこの山に登り国見をした故地で、建武2年(1279)新田義貞が播磨に攻め込んだ際、立岡山の北嶺に本陣(笹山の陣)を置いている。この時、対峙していた赤松則村は白旗城へ引き上げ、義貞はこれを攻めたが落とせず、足利尊氏の東上を招き、湊川の戦いへと続く。

 

 播磨島津家7代目の忠兼は、尊氏に従って転戦し、湊川の戦いで戦功を挙げ、領地を増やしている。歴史ある立岡山だが、現在は写真の通り山頂に配水タンクがあり、城跡の面影は少ない。