摂津 大物城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大物崩れの碑②大物主神社

 

訪問日:2006年5月

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 大物城は細川高国が永正16年(1519)に簡素な砦を築き、大永6年(1526)本格的な戦国城郭として完成されたらしい。その後、天正2年(1574)荒木村重の所有となり、同5年頃から長男の村次が城主となった。村重が信長に叛いた天正6年(1578)には毛利氏からの兵糧補給基地となり、翌年、有岡城を出た村重は大物城に移った。近世の尼崎城とは別の場所にあったと思われるが、正確な場所は不明である。

 

 細川高国は澄元・澄之に次いで京兆家当主・細川政元の3番目の養子となった。諱は11代将軍・足利義高(のち義澄)から一字を与えられたものである。

 

 永正4年(1507)政元が澄之派の香西元長・薬師寺長忠らに暗殺されると、高国は澄之討伐の兵を挙げた澄元に味方して細川一族を纏め、元長・長忠を討ち、澄之は自害して澄元が家督を継いだ。

 

 この混乱を機に周防の大内義興が庇護していた前将軍・足利義尹(のち義稙)を擁して上洛してくると、和睦交渉に赴いたはずの高国は義興に通じて、永正5年(1508)澄元や将軍・足利義澄を近江に追放し、義興とともに入京して義尹を将軍に復職させ、高国は家督を継いで管領に任ぜられた。

 

 翌永正6年(1509)澄元と重臣・三好之長の京都侵攻を義興とともに如意ヶ嶽の戦いで撃退するも翌年の再侵攻には大敗し、さらに永正8年(1511)細川政賢や赤松義村も加わった澄元方の再侵攻(深井城の合戦・芦屋河原の合戦)では丹波撤退にまで追い込まれるが、澄元方の盟主の前将軍・義澄の病死もあり、船岡山合戦に勝利した。

 

 永正16年(1619)前年に大内義興が周防に帰国した機を突いて澄元・之長が摂津に進出し、翌永正17年(1520)近江坂本に撤退すると、将軍・義稙が澄元に通じてしまう。しかし、高国は六角氏・朝倉氏・土岐氏を味方にして京都に反撃し、等持院の戦いで勝利して之長を自害させ、阿波に逃れた澄元は同年中に病死し、高国は将軍も何も言えない事実上の天下人となった。

 

 高国は味方であった越水城主・瓦林正頼に謀反の嫌疑をかけて殺害するなど内部の粛清を開始、翌年には立場を失くした将軍・義稙が出奔し、かつての敵であった義澄の遺児・義晴を擁立した。

 

 大永4年(1524)家督と管領職を嫡子・稙国に譲るがすぐに亡くなってしまい、復帰する。大永6年(1526)讒言を信じて重臣・香西元盛を謀殺すると、実兄の丹波八上城主・波多野稙通と神尾山城主・柳本賢治が挙兵、これに澄元の遺児・六郎(晴元)と三好元長が呼応する。

 

 翌年には賢治や元長が京都に侵攻し、桂川で迎撃するも敗れて義晴を奉じて近江坂本に逃れた。同年中に朝倉氏の加勢を得て京都に復帰するが、翌年、朝倉軍が帰国すると再び坂本に逃れ、高国政権は瓦解した。

 

 しかし、享禄3年(1530)柳本賢治が播磨出陣中に急死すると、高国は備前守護代・浦上村宗を味方にして京都帰還を果たす。さらに、晴元らが擁立した堺公方・足利義冬の堺公方府へ進出を目論むが享禄4年(1531)摂津中島の戦いで元長の反撃に遭い、播磨守護・赤松政祐の支援を仰ぐが、政祐は晴元方に寝返って大混乱に陥り、高国方は総崩れとなって尼崎に敗走した。世に言う大物崩れである。

 

 高国は元長らの厳しい捜索により捕縛され、尼崎の広徳寺で自害した、享年48。戦いに明け暮れたような一生だが、高国は名作庭家として伝わっており、伊勢・北畠氏館庭園、将軍・義晴が逃れた近江・朽木の秀隣寺庭園や越前・ 平泉寺の旧玄成院庭園といった名園が現在も見ることができる。

 

 

以下、現地案内板より

 

大物くずれの戦跡碑

 

 応仁の乱をきっかけに、戦国時代となった頃、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立してきます。細川政元の養子、高国と甥の晴元がそれぞれ対立すると、尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531)両者が決戦するに至ったとき、高国勢は総くずれになり、高国が居城した尼崎城(大物城か)へ逃げこむ程の大敗となりました。晴元勢の追撃は激しく高国は大物の広徳寺で自刃しました。この戦いを世人は「大物くずれの戦い」とよんで、語り伝えられてきました。