安芸 広島城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①復元天守

イメージ 2②復元天守

イメージ 3③復元天守

イメージ 4④復元天守

イメージ 5⑤二の丸表御門•多聞

イメージ 6⑥二の丸太鼓櫓•平櫓

 

訪問日:2001年1月

 

所在地:広島市中区

 

 天正16年(1588)毛利輝元は豊臣秀吉の招きに応じて叔父の吉川広家や小早川隆景らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れた。当時、毛利氏の本拠は堅固ではあったが、山城の吉田郡山城であった。

 

 翌年、輝元は五箇村と呼ばれた太田川下流域の中州に築城を決意し、天正19年(1591)には輝元が入城した。天守は遅くとも文禄元年(1592)には完成しており、同年、名護屋城に向かう途中の秀吉がここに立寄っている。

 

 天守は現状とは違い、三層の小天守2基を連結した複合連結式天守で、屋根には金箔瓦が使われたが、一方で大坂城などとは違い、天井は張られず、梁が剥き出しであったという。

 

 その後、慶長4年(1599)に全ての工事が完了して落成し、輝元はこの城を広島城と名づけた。しかし、翌年の関ヶ原の戦いで輝元は広島城を去ることとなり、替って福島正則が城主となった。

 

 正則はさらに外郭を整備するなど大規模な普請と城下町づくりをすすめたが、これが裏目に出て元和5年(1619)洪水による被害の修復を幕府に無届で行い、武家諸法度に違反したとして信濃に改易された。

 

 翌年、紀州和歌山から浅野長晟が入城し、明治維新まで存続した。広島藩は官軍として戦ったので城が戦場になることはなかった。

 

 明治6年(1873)城内に広島鎮台が置かれ、以降大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになり、この頃に2基の小天守が撤去された。そして明治27年(1894)日清戦争が勃発すると広島大本営が置かれた。

 

 そんな中でも広島城の歴史的価値が評価され、大正15年(1926)大本営跡が史跡指定され、昭和6年(1931)には天守が当時の国宝に指定された。

 

 そして昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による原爆投下により十数万人の市民の命とともに、天守は崩壊した。最初の爆発時の熱線には耐えたが、直後の爆風による衝撃波と圧力で下部2層がまず倒壊し、続いて上部3層も崩落し、天守台や堀に散乱したという。