摂津 尼崎城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①城址碑

イメージ 2②復興石垣と庄下川

イメージ 3③復興石垣と土塀

イメージ 4④復興石垣と土塀

イメージ 5⑤本丸模型(明城小)

イメージ 6⑥天守鬼瓦(桜井神社

 

訪問日:1997年11月(①) 2006年5月(②~⑥)

 

所在地:兵庫県尼崎市

 

 かつて本丸には4重の天守と3基の3重櫓が聳え立ち。本丸・二之丸・松の丸・南浜・西三の丸・東三之丸といった郭や3重の水濠をもった名城は明治以降の阪神工業地帯の発達とともにその姿を消してゆき、昭和になると市立城内小学校(現・明城小学校)内に天守台を残すのみとなり、その天守台も撤去されて完全に遺構は地表から姿を消した。近年尼崎城址公園が整備され、石垣と土塀が模擬復元された。

 

 近世の尼崎城を築いたのは元和3年(1617)近江・膳所城から5万石で移った戸田氏鉄で、通称を左門といい、尼崎市と大阪市の境を流れる左門殿川や左門橋としてその名を残している。築城に伴う治水事業の功績が讃えられてのことである。

 

 寛永12年(1635)、美濃大垣城10万石に移封され、寛永14年(1637)~15年の島原の乱に出陣し、寛永18年(1641)将軍・徳川家光の嫡男・竹千代(家綱)誕生の折には臍の緒を切断する箆刀の役を務めている。

 

 大垣でも新田開発や治水工事などの功績を残して藩政を安定させた。明暦元年(1655)80歳で亡くなっている。

 

 青山氏4代を経て、正徳元年(1711)桜井松平氏の忠喬が入封し、最後の藩主・7代目の松平忠興は慶応4年(1868)の戊辰戦争では新政府に恭順し、所領を安堵されたが、徳川との決別の証として桜井と改称した。明治4年(1871)廃藩置県により尼崎県となち、翌年には兵庫県に編入された。

 

 ところで尼崎市は兵庫県に属するが、電話の市外局番は大阪市などと同じ「06」である。これは明治23年(1890)当時大阪までしか通っていなかった電話をどうしても尼崎まで通してほしいということで、尼崎紡績会社(現・ユニチカ)が自費で尼崎まで通してもらい、昭和29年(1854)に市外局番が適用された時に大阪市と同じ通話料金で利用できるようにするため、同じ市外局番にしたということである。

 

 

以下、現地案内板より

 

尼崎城跡(四角堀・伏見門跡)

 

 尼崎城は、現在の北城内・南城内の約300M四方の地域に築造され、現在の庄下川も西側の外堀として利用されていました。沖から見ると城全体が海に浮かんでいるかのように見え、美しく水に写る姿は「琴浦城」の名称で親しまれていました。本丸(現在の城内中学校付近)には高さ約18Mの四層の天守閣が築かれていました。
 この尼崎城は、元和4年(1618)から数年かけて、譜代大名の戸田氏鉄によって築城されたものです。
 現在地あたりは二の丸の前の内掘と中堀を結ぶ横堀や「四角堀」と呼ばれる内掘と外堀を結ぶ縦堀のあったところで、この付近に、「伏見門」がありました。戦国時代までの中国海道が旧町場を抜けて通っていました。
                                      

尼崎市教育委員会