三河 吉田城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①鉄櫓

イメージ 2②豊川から見る

イメージ 3③千貫櫓台

イメージ 4④鉄櫓と豊川

イメージ 5⑤本丸空堀

イメージ 6⑥鉄櫓台

 

訪問日:1991年5月(①②) 2005年12月(③④⑤⑥)

 

所在地:愛知県豊橋市

 

 徳川四天王の1人・酒井忠次は家康の父・広忠より1歳年下で、その妹・碓井姫を妻としていた。今川氏への人質となった竹千代(家康)に随行して駿河に赴いた。

 

 桶狭間の戦いで家康が独立した後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563)三河一向一揆では、酒井忠尚ら一族と思われる人々が多く一揆側に加担したが、忠次は家康に従い、翌永禄7年(1564)、今川氏の持城であった吉田城攻めで戦功を挙げ、そのまま吉田城主として東三河を統括した。

 

 以後、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなど家康の参戦した合戦にはほぼ参戦し、大功を挙げている。特に三方ヶ原の敗戦後、浜松城に戻った際には櫓に登って太鼓を打ち鳴らし、味方を鼓舞して、警戒した武田軍は城攻めを見送ったという逸話はよく知られている。

 

 天正13年(1585)同じく宿老の地位にあった石川数正が秀吉の下に出奔してからは、家康の第一の重臣となり、翌年の家康上洛の際には家中では最高位の従四位下左衛門督に叙任された。

 

 天正16年(1588)家督を嫡男の家次に譲って隠居し、秀吉に与えられた京都の屋敷で晩年を過ごし、慶長元年(1596)家康の天下を見ることなく70歳で亡くなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

吉田城略史

 

 吉田城ははじめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。
 以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら小禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。