上野 館林城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①土橋門

イメージ 2②土橋門

イメージ 3③土橋門

イメージ 4④三の丸土塁

 

訪問日:2003年8月

 

所在地:群馬県館林市

 

 館林というと最近では最高気温が話題になることが多いところで、関西の人間も時々ニュースで耳にすることがある。

 

 徳川四天王の1人、榊原康政を輩出した榊原氏は松平氏の重臣・酒井忠尚の家臣で松平元康(家康)から見れば陪臣であったが、永禄3年(1560)13歳の時に亀丸(康政)は元康に見出され小姓となった。

 

 永禄6~7年の三河一向一揆討伐戦で初陣を果たし、武功を挙げて元康から一字を与えられて康政と名乗った。この時忠尚は一揆方に与し、敗れて行方知れずとなった。

 

 榊原家の家督は2歳年上の兄・清政が継いでおり、元康の侍大将となっていたが、病弱であったからか、康政が陣代となることが多く、永禄10年(1567)旗本先手役に抜擢され、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどにおいて多大な武功を挙げた。

 

 家康(元康改め)の長男・信康の傅役であった清政は、天正7年(1579)信康の自刃の後、隠居して康政に家督を譲った。

 

 康政は天正9年(1581)高天神城の戦いでは先陣を務め、翌天正10年(1582)の本能寺の変では家康とともに伊賀越えをして三河に戻っている。

 

 天正12年(1584)小牧・長久手の戦いでは羽柴秀次軍を壊滅させ、森長可、池田恒興を討死に追い込んだ。怒った秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたとされるが、天正14年(1586)家康の上洛に際し、秀吉から使者に指名され、歓待された上、従五位下式部大輔に叙任され、豊臣姓も下賜された。

 

 天正18年(1590)家康の関東移封時には館林城を与えられ、井伊直政に次ぎ、本多忠勝と並ぶ10万石を与えられた。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍監として中山道を進軍するが、信濃・上田城を攻めあぐねて合戦に遅参した。秀忠は康政の取りなしにより、家康への対面を許された。

 

 康政は慶長11年(1606)館林城にて死去、59歳だった。兄・清政は康政に従って館林城にあったが、家康の要請により慶長12年(1607)駿府城の詰城である久能城(現・久能山東照宮)の城代となったが、家康自らの見舞いの甲斐なくその年の内に亡くなった。以降、清政の家系が久能山の管理を任される。

 

 康政の家系は孫の忠次が陸奥白河に転封となり、その後、播磨姫路・越後村上・再び播磨姫路・越後高田と転封を繰り返して明治維新を迎えた。

 

 館林城には榊原氏の後、譜代大名や後に5代将軍となる徳川綱吉らが藩主となり、最期の藩主・秋元礼朝の時に明治維新を迎える。

 

 
以下、現地案内板より

 

館林市指定史跡  館林城跡
 指定 昭和48年4月1日  所在 館林市城町甲23-1他  時代 戦国時代~江戸時代

 

 館林城は「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに、「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録h現在まで発見されていない。
 現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
 天正18年(1590)の徳川家関東移封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面の要所として、また、徳川綱吉が五台将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重油な地として、江戸幕府に位置付けられ
最期の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
 城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
 土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
 この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを河口土塁で、江戸時代からのものである。
 特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」と呼ばれ、閉門時に閣内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。
                   
館林市教育委員会