上野 吉井陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①表門

イメージ 2②表門

イメージ 3③表門

イメージ 4④陣屋略図

 

訪問日:2003年8月

 

所在地:群馬県高崎市(旧多野軍吉井町)

 

 五摂家のひとつ鷹司家の、関白まで務めた鷹司信房の4男の鷹司信平は姉の3代将軍徳川家光夫人・鷹司孝子を頼り、慶安3年(1650)15歳の時、家臣1人を伴い、江戸に下向した。家光は信平を歓迎して禄を与えた。

 

 翌年に家光は亡くなるが、承応2年(1653)、4代将軍家綱の計らいで、紀州藩主・徳川頼宣の娘を娶り、翌承応3年には従四位下左近衛少将に叙任されて松平姓を与えられ、さらに延宝2年(1674)には上野・上総に計7千石の領地を賜った。

 

 信平の孫・信清の時代の宝永6年(1709)に5代将軍綱吉から上野国多胡郡など3千石を加増され、1万石の大名となった。信清は矢田に陣屋を置き、吉井藩(矢田藩)が成立した。

 

 幕末の9代藩主・信発は、発信力のある人で、嘉永4年(1853)の黒船来航では攘夷を主張し、安政4年(1857)日米修好通商条約については不平等として断固反対した。

 

 安政6年(1859)の安政の大獄では、徳川斉昭に蟄居を申し渡す上使を務めて幕府から称賛を受けている。元治元年(1864)陣屋を矢田から吉井に移した。(宝暦2年・1752 3代藩主信有によるとも)

 

 翌年、養子の信謹に家督を譲るが、なおも実権を握り続け、慶応4年(1868)明治新政府に恭順の意を示し、姓を吉井に改めた。

 

 

以下、現地案内板より

 

吉井藩陣屋の表門  吉井町重要文化財 昭和48年5月18日指定

 

 この表門は、吉井藩陣屋が宝暦2年(1752)に矢田から吉井に移った後に建てられ、建造年月日は不明で、ほぼ200年を経ている。明治4年の廃藩置県に陣屋も解体されて、この表門も売却され、東深沢の民家に移築、昭和45年に当主新井潔氏が吉井町に寄贈し、この地に復元した。間口5.8m、奥行2.47m、高さ5.37mあって、控柱から架けられた梁によって切妻屋根が前方へ持ち出しになり、側面の姿が非対称形になっている。
 鬼瓦に家紋の「丸に葉牡丹」が示され、屋根は軒反りがあったが、移築の際に直線屋根になった。板扉は矢弾を通さないといわれる「さいかち」(マメ科)の材がつかわれている。
復元は昭和48年3月

 

 

吉井藩と陣屋

 

 吉井藩は、京都鷹司家の出である信平を祖とする。石高は壱万石にすぎないが徳川親藩として松平姓を名乗り江戸城中では重きをなしていた。藩主は江戸定府で陣屋を置いて藩治に当らせた。陣屋は始め木部村(高崎市)、次いで矢田にあったが、宝暦2年にこの地に移った。11代信発は水戸家蟄居(勤皇党の歌劇活動に対して)の大任を無事に果たした名君である、なお、12代信謹は他藩にさきがけ明治2年に版籍奉還をして、吉井藩知事に就任した、陣屋の概要は図通りで位置は現在の「旧陣」一帯の地である。周囲に堀と土手をつき、その上に松と欅を植え、盗東南に表門を設けた。 

 

吉井町教育委員会