越後 村上城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①四ッ門跡

イメージ 2②御鐘門跡

イメージ 3③黒門跡

イメージ 4④本丸石垣

イメージ 5⑤出櫓(工事中)

イメージ 6⑥復元図

 

訪問日:2004年8月

 

所在地:新潟県村上市

 

 訪問した時は丁度石垣の修復工事中であった。戦国時代、この城を最初に築いたのは本庄房長で、城の名も本庄城と呼ばれていた。その子繁長が、慶長3年(1598)上杉景勝に従い会津へ転封となり、替って堀秀治の家臣・村上頼勝が城主となり、近世城郭化され、村上城と改められた。

 

 揚北衆と呼ばれる越後北部の国人の一人である本庄房長は、天文8年(1540)越後守護・上杉定実が伊達稙宗の3男・時宗丸(実元)を養子に迎えることに反対し、出羽・大宝寺氏と結んで推進派の中条藤資や定実、伊達氏の援軍と戦ったが、弟で定実派の小川長資に城を奪われ、間もなく亡くなった。

 

 幼少の遺児・千代猪丸(繁長)が家督を継いだが実権は長資に握られていたが、天文20年(1551)当時12歳の千代猪丸は父の13回忌の場所で長資を捕えて自害させ、実権を取り戻した。

 

 長資を支援していた長尾景虎(上杉謙信)とは対立し、永禄元年(1556)景虎の家臣となるが、自立志向が強く、永禄11年(1568)武田信玄の求めに応じて大宝寺氏とともに謙信に叛旗を翻すが、翌年には降伏して嫡男・千代丸(顕長)を人質に出し、降伏した。

 

 天正6年(1578)謙信が亡くなり、御館の乱が発生すると、繁長は景勝方につくが、嫡男・顕長や大宝寺義氏は景虎(北条氏康の7男)に味方した。景勝の勝利に終わると繁長は顕長を廃嫡する。

 

 天正11年(1583)義氏が最上義光に謀殺されると、跡を継いだ弟の義興は繁長の次男千勝丸(大宝寺義勝)を養子として義光に対抗した。しかし、繁長は新発田重家との戦いに忙殺され、有効な手が打てず、天正15年(1587)義光に尾浦城を攻略され、義興は自害、義勝は実父の下に落ち延びた。

 

 しかし、天正16年(1588)逆に義光が伊達政宗との戦いに身動きが取れない隙を突き、繁長・義勝父子が逆襲し、十五里ヶ原の戦いに勝利して義勝は出羽に復帰した。翌年には天下人となった豊臣秀吉に謁見して大宝寺氏は景勝の与力大名として公認される。

 

 ところが、翌天正18年(1590)繁長・義勝父子は奥州仕置きに反発した藤島一揆を扇動したとの嫌疑を受けて改易され、揃って大和に配流となった。後に文禄の役に参戦して赦されて上杉氏に帰参する。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを目前に繁長・義勝父子は景勝から福島城の守備を命じられた。東軍の勝利が確定すると伊達軍が福島城に攻め込んだが、父子は福島城を死守した。

 

 徳川家康への徹底抗戦を主張した直江兼続に対し、繁長は講和を主張し、景勝は繁長の意見を容れて繁長に上洛を命じ、奔走の結果上杉氏は米沢城30万石に減封となった。

 

 繁長は慶長18年(1614)74歳で亡くなり、跡は義勝が本庄氏に復帰して本庄充長と改名して相続した。これにより大宝寺氏はお家断絶となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 村上城跡

 

 村上城跡は標高135メートルの臥牛山を中心に広がり、築城年代は16世紀初頭と推定される。
 城主は国人領主の本庄時長であり、以降、房長・繁長と千石期三代にわたる居城となる。
 江戸期の元和4年(1618)には、徳川譜代の堀直寄が10万石で入封し、縄張りを行い、山上の曲輪を拡張し、石垣を築くなど、それまでの中世的な城を近代城郭へと変貌させた。
 総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km、山上は本丸、二の丸及び三の丸から成り、西側山麓には城主居館が配され、東側には大小の曲輪が設けられていた。
 慶安2年(1649)、譜代の松平直矩が15万石で入封すると、家臣数の増加に伴い、再び城と城下の改築に着手する。現存する石垣の多くが、このとき積み替えられたものと推定される。
 村上城跡は、地形を巧みに利用した遺構と、、新潟県下最大規模の江戸期の石垣とが共存していることが他に類を見ない最大の特徴であり、中世と近世の両方の遺構を散策することができる。

 

平成5年国指定 村上市