摂津 今津砲台 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①砲台跡

イメージ 2②今津港

イメージ 3③灯台

 

訪問日:2006年6月

 

所在地:兵庫県西宮市

 

 今津砲台は西宮砲台の東1㎞余のところに築かれたが、堡塔は現在取り壊されている。西宮砲台のものも火災により内部の木造部は焼失し、現在は鉄骨で補強されている。最も堡塔の原形を留めているのは和田岬砲台のもので、神戸市兵庫区の三菱重工業神戸造船所内にあり、予約をすれば見学もできるが、まだ実行に移せていない。

 

 今津砲台跡の近くに残る今津灯台は現役の航路標識として使用されている日本最古のもので、文化7年(1810)今津郷の酒造家・長部家により設置され、日本酒や木綿、干鰯などを積み今津港を出入りする樽廻船の安全を見守っていた。

 

 勝海舟は元治元年(1864)から2年間ほど蟄居生活を送っているが、その間、西郷隆盛と大坂で初めて会い、西郷は大久保利通に勝を称賛する手紙を送っている。

 

 慶応2年(1866)軍艦奉行に復帰し、直後の第二次長州征伐の停戦交渉の任にあたり、合意に成功しているが禁裏御守衛総督・徳川慶喜との行き違いにより、御役御免を願い出ている。

 

 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は蟄居し、薩長を中心とした官軍が東征に及ぶと、幕府は勝を陸軍総裁として、全権を委任され、幕府を支援する当時ナポレオン3世政権下のフランスと組んでの徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張する。

 

 勝は国際法を楯にとって官軍に協力する大英帝国ヴィクトリア女王政権下のイギリス公使パークスを動かして官軍に圧力をかけ、西郷隆盛と歴史的な交渉に成功する。日本における仏・英の代理戦争がこれによって回避された。

 

 明治維新後も勝は新政府においても要職を歴任し、伯爵に叙された。その間にも旧主・慶喜の赦免や西南戦争により朝敵となった西郷隆盛の名誉回復にも奔走した。早世した実子の小鹿の養子として慶喜の十男・精を勝家に迎えている。

 

 慶喜と勝の間には葛藤もあったが、江戸の侠客・火消の新門辰五郎を介して古くからの知り合いであったとも思われ、気心は知れた仲だったのではなかろうか。いずれにせよ勝や慶喜の見ようによっては弱々しく見える態度が列強による日本統治から逃れることができた要因であることは間違いない。

 

 

以下、現地案内板より

 

今津砲台

 

 今津の海浜部に砲台が築かれたのは、江戸時代末期のことでした。当時、江戸幕府はたびかさなる外国船の来航に不安を感じ、沿岸警備のため大阪湾岸に多くの砲台をつくりました。砲台の位置は勝海舟が計画し、今津では港の入口東側におかれました。
 砲台は1863年(文久3年)に建設が始まり、1866年(慶応2年)後半になってようやく完成しました。砂地に建てるため千本をこえる松グイを打ちこみ、そのうえに、瀬戸内海中部の島々から運んだ花崗岩を積み上げました。通常の二倍の賃金で熟練工を集め、突貫工事で完成を急ぎましたが、あしかけ四年を要する難工事となりました。
 砲台の大きさは直径10数メートル、高さ10メートルから12メートルで、二層目をめぐる砲眼からは、大砲で四方をねらうことができました。
 1915年(大正4年)、砲台は民間に払い下げられたあと、石を取るために壊され、今津港から運び出されました。ここに置かれた石材は、その砲台の一部です。

 

西宮市