播磨 明石藩舞子台場(舞子砲台) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①石垣

イメージ 2②砲台跡碑

 

訪問日:2000年10月

 

所在地:神戸市垂水区

 

 舞子砲台は勝海舟の指導により、明石藩が幕府から1万両の貸付を受けて築造した。幕府が築造した西宮砲台などと違い堡塔はなく、総石垣の半星形稜堡式の縄張りで慶応元年(1865)竣工した。

 

 当時の明石藩主は越前松平氏系の松平慶憲であった。慶憲の父・直韻は11代将軍・家斉から、その25男・周丸(斉宣)を養嗣子に強要され、慶憲の母は自殺したともいわれている。しかし、その斉宣が天保15年(1844)20歳で夭折し、本来の嫡子であった慶憲が藩主となった。

 

 慶憲は慶応2年(1866)の第二次長州征伐に参陣し、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として参陣したが遅参して将軍・徳川慶喜の救出ができずに明石に引き上げた。

 

 その後、官軍・山陽鎮撫使が明石に進軍すると、本家筋の松平春嶽の取りなしにより、恭順して明石城を明け渡し、官軍とともに姫路に進軍した。また、戊辰戦争においては藩兵を越後方面に派遣している。

 

 明治2年(1869)家督を嫡男・直致に譲って隠居する。明治4年(1871)4月、廃藩置県により明石県に、同年11月には播磨国内の各県が統合されて姫路県になったが、その1週間後には飾磨県と改称された。明石・姫路ともに佐幕派ゆえの処置といえよう。

 

 さらに明治9年(1876)兵庫港(神戸市)の発展のためとして、当時規模の小さかった兵庫県に編入され、現在に至っている。