摂津 西宮砲台 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①堡塔

イメージ 2②堡塔

イメージ 3③堡塔

イメージ 4④土塁

イメージ 5⑤堡塔

 
訪問日:2001年4月(①②③④) 2006年6月(⑤)

 

所在地:兵庫県西宮市

 

 嘉永7年(1854)9月19日、ロシアのプチャーチンが大坂の天保山沖に投錨し、幕府は大阪湾の海防の充実を迫られる。老中格小笠原長行が台場築立御用掛を命じられ、軍艦奉行・勝海舟とともに摂海砲台築造地所の調査を行い、文久三年(1863)2月、ようやく和田岬・湊川・西宮・天保山等に砲台の築造が具現化し、同年8月、西宮・今津・和田岬(神戸市兵庫区)・川崎(神戸市中央区)の堡塔砲台築造起工の運びとなった。

 

 和田岬と川崎砲台は元治元年(1864)に完成し、西宮・今津については慶応2年(1866)ようやく完成した。当初は全て稜堡式に築かれる予定だったが、財政困窮から和田岬以外は円形の土塁となった。

 

 勝海舟は嘉永6年(1853)ペリー来航をきっかけとする政局混乱下で老中首座・阿部正弘が主導した安政の改革により、抜擢されて長崎海軍伝習所に入所した。万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のための遣米使節が米海軍軍艦に乗って渡米する際、護衛として咸臨丸の軍艦操練所教授方頭取として同行した。

 

 この時、軍艦奉行・木村喜毅の従者として福沢諭吉、通訳としてジョン万次郎も乗り込んでいる。万次郎は勝を艦長、木村を提督と説明した。

 

 帰国後はしばらく他部所にあったが、文久2年(1862)海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任、翌年より前述の砲台築造を主導する。将軍・徳川家茂に大阪湾巡視に随行した際には、神戸港を日本の貿易拠点にすべきと提案した。

 

 家茂から海軍の操練局開設の許可を得た勝は、元治元年(1864)神戸海軍操練所を完成させ、坂本龍馬や陸奥宗光を輩出した。

 

 しかし、同年の禁門の変の後、勝は幕府保守派により軍艦奉行を罷免され、翌年には、操練所も反幕府的だとされて閉鎖された。

 

 

以下、現地案内板より

 

西宮砲台

 

所在地 西宮市西波止字西波止
所有者 阪神電気鉄道株式会社
管理者 西宮市教育委員会   大正11年3月8日国指定

 

 江戸時代末、国防不安を感じた江戸幕府は、大阪湾に砲台を築き、本格的な摂海防備に着手しました。砲台の位置は勝海舟が計画し、西宮ではこの「西宮砲台」のほか今津にも築かれました。
 西宮砲台の建設は、1863年(文久3)に始まり1866年(慶応2)後半になってようやく完成しました。砂地に建てるため多数の松グイを打ちこんで地盤をかたくし、その上に、瀬戸内海中部の島島から運んだ花コウ岩を積み上げています。通常の2倍の賃金を支払って熟練工を集め、突貫工事で完成を急ぎましたが、あしかけ4年を要する難工事となりました。
 砲台の高さは約12m、直径約17mで、外側には漆喰が塗られています。2層目に見られる12個の孔は、大砲で四方をねらうための11個の砲眼と窓で。内部には井戸・弾薬庫が設けられました。完成後試射をしましたが、煙が内部に充満し実際に使うことはありませんでした。