①那古屋城跡
②那古屋城跡
③(名古屋城二の丸)
訪問日:2013年8月
所在地:名古屋市中区
織田信秀は、尾張下四郡の守護代で清洲城主の織田大和守家の庶流で、清洲三奉行の一人として勝幡城を居城としていた。大永7年(1527)父・信定から家督を譲られ、天文元年(1532)には主家の織田達勝と抗争を起こしている。
同年、あるいは天文7年(1538)今川氏豊から那古野城を奪い、愛知郡に勢力を伸ばしてここに居城を移した。天文3年(1534)に信長が、5年に信勝(信行)が生まれているので、両者の誕生地は那古野城と勝幡城の両説があるが、最近は勝幡城説が有力だそうだ。
天文8年(1539)には那古野城を信長に譲り、古渡城へ居城を移す。守護代の家臣という立場でありながら、上洛して朝廷より従五位下備後守に叙任され、将軍・足利義輝にも拝謁している。さらに天文10年(1541)には伊勢神宮の遷宮に献金して、三河守に任じられている。
信秀の勢力拡大は尾張国内に留まらず、天文9年(1540)には松平氏の三河安祥城を攻略、同11年(1542)には小豆坂の戦いで今川氏を破り、西三河にも権益を保持した。
さらにこの頃、斎藤道三に追放された美濃守護の土岐頼芸を保護して、道三とも戦い、一時は大垣城を奪うが、天文13年(1544)越前朝倉氏の援軍に敗れる。
このあたりから信秀の快進撃にブレーキがかかり、天文16年(1547)稲葉山城に攻め込むものの加納口の戦いで道三に敗れ、翌17年(1548)には甥の犬山城主・織田信清や楽田城主・織田寛貞が叛旗を掲げ、大和守家を継いだ織田信友は古渡城を攻撃してきた。信秀はこの年居城を末森城に移している。
信清・寛貞を降伏させ、信友とは和睦したものの、同年再び小豆坂で今川氏と戦うが敗れ、さらに安祥城も失った。この安祥城の戦いにより、今川氏に捕らえられた信秀の庶長子・信広と松平竹千代の人質交換が行われる。
天文18年(1549)信秀は道三と和睦して、嫡男・信長と道三の娘・濃姫との婚姻を成立させた。しかし、今川家との対立を残したまま天文20年(1551)末森城で急死した。享年42、志半ばで病に斃れたが、その志は信長に受け継がれ、天下に織田の名を轟かせることになる。
以下、現地案内板より
那古屋城跡
大永(1521~28)の初め、今川氏親が名古屋台地西北端(名古屋城二の丸あたり)に築いたもので、一名「柳之丸・那古屋城」といった。
今川氏親は、一族の今川氏豊を城主として守らせていたが、織田信秀によって城を奪われた。
天文四年(1535)織田信秀が古渡城に移った後、織田信長が居城した。弘治元年(1555)織田信長が清須に移った後、一族の織田信光が居城したが、やがて廃城となった。
今川氏親は、一族の今川氏豊を城主として守らせていたが、織田信秀によって城を奪われた。
天文四年(1535)織田信秀が古渡城に移った後、織田信長が居城した。弘治元年(1555)織田信長が清須に移った後、一族の織田信光が居城したが、やがて廃城となった。
名古屋市教育委員会