①城山八幡宮鳥居
②空堀
③空堀
④空堀
⑤拝殿
⑥城跡碑
訪問日:2013年8月
所在地:名古屋市千種区
織田信秀の死後、末森城は同居していた信勝(信行)がそのまま城主となった。しかし、次第に兄・信長との仲が険悪となり、兄を差し置いて父祖の官途名である弾正忠を名乗る。
弘治2年(1556)信長の岳父・斎藤道三が嫡男・義龍に敗れて討死したのを機に、柴田勝家・林秀貞とともに挙兵したが、稲生の戦いで信長に敗れて末森城に籠ったが、母の取りなしにより赦された。
しかし翌年、岩倉城主の織田信安と通じて再び謀反を企てたとの勝家の密告により、清洲城に呼び出された信勝は北櫓天主次の間で信長家臣の手で殺害された。
信勝には4男1女が伝わっており、明智光秀の娘婿となった嫡男・信澄は本能寺の変の後、信長3男の信孝らに殺害され、信孝の家臣であった3男の信兼は主君に殉じた。次男の信糺と4男の信直は後に蜂須賀氏に仕えて子孫を伝え、娘も蜂須賀氏の家臣に嫁いでいる。
以下、現地案内板より
末森城跡
天文17年(1548)織田信秀はこの地に城を築き、古渡城から移った。守山城を守る弟信光と連携して、三河の今川方に対する備えのためであった。翌年、信秀はこの城で病死し、三男信行が城主となった。その後、信行は兄信長と対立し、稲生原の合戦を起こして敗れ、永禄元年(1558)清須城で謀殺された。城は翌年廃城となったといわれる。
城山八幡宮の境内として保護されたため、戦国・織豊期の城郭遺構がよく残っている。
名古屋市教育委員会