尾張 荒子城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①利家誕生地碑

イメージ 2②天満天神宮

イメージ 3③天満天神宮

イメージ 4④天満天神宮

 

訪問日:2013年8月

 

所在地:名古屋市中川区

 

 尾張楽田城のところで触れたが、北陸遠征へ向かう途中の郡上八幡あたりで、愛車ビートのエンジントラブルにより遠征を断念し、急遽名古屋にホテルをとり、当日は鵜沼城・犬山城・楽田城と巡り、翌日は地下鉄を使って名古屋城・末森城・荒子城と巡り、近鉄特急で関西に戻ったという楽しい旅だった。暑さだけがつらかった。

 

 前田利久は、永禄3年(1560)父・利昌の死去により、家督を継ぎ荒子城主となった。滝川氏の娘を妻に迎えたが子はなく、弟・安勝の娘を養女としてその婿を妻の実家から迎えた。有名な前田慶次郎利益である。漫画のイメージでは利家よりかなり年下のように思えるが、加賀藩資料では利家より5歳年上、米沢の郷土資料では3~4歳年下といったところで、確定はしないが、同年代と言ってもいいだろう。

 

 しかし、永禄12年(1569)足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした翌年、信長の命令により信長お気に入りの弟・利家に家督を譲る。

 

 この時少々前田家に確執が生じたようで、妻は家宝の譲渡を拒み、重臣で荒子城代の奥村助右衛門永福は利久の命令がない限り城は明け渡さないと抵抗し、改めて利久の命を受け、城を明け渡して浪人した。

 

 永福はその後天正元年(1573)に前田家に帰参し、同12年(1584)寡兵で能登・末森城を佐々成政の1万5千兵の猛攻から守り切り、利家の勝利に貢献した。

 

 利久は、利家に家督を譲った後に出家したが、天正11年(1583)能登・七尾に移って利家に仕え、利家の留守中には金沢城代を務めたりもした。

 

 

以下、現地案内板より

 

荒子城跡

 

 天文年間(1532~55)前田利昌の築城と伝えられている。その子利久、同じく利家、利家の子利長が相継いで居城した。
 天正3年(1575)利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利長も同地に移るにおよび廃城となったとされている。
 「尾陽雑記」「古城誌」などによると、この城は東西約68m南北約50mあり、一重堀を巡らしていたとある。

 

名古屋市教育委員会

 

 

前田利家と荒子城

 

 加賀百万石の藩祖、前田利家は1537(天文6)年(天文7年説あり)、利昌の四男としてこの地に生れました。(前田城説あり)。幼名は犬千代。十五歳のとき織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗り、信長の尾張統一戦のひとつ海津の戦で初陣を飾りました。二十二歳のとき、十歳下の「まつ(愛知県七宝町生まれ)」と結婚。この頃、又左衛門利家と名を改めています。若い頃は奇抜な振舞いを好みバサラ者でもありましたが、武勇に優れ「槍の又左」と呼ばれました。桶狭間の戦いの後、美濃攻めの頃から勇士のみに許された赤母衣(あかほろ)衆の筆頭として従軍、三十三歳のとき、信長の命により荒子城主になりました。利家三十九歳の時、越前府中(福井県武生市)十万石を佐々成政、不破光治とともに治め、やがて能登一国を領有します。その後は、豊臣秀吉を補佐する大々名に出世、後の加賀百万石の礎を築きあげました。
 荒子城は、天文年間、前田利昌の築城と伝えられています。規模は狭い平地に簡単な柵と堀をめぐらし、敵を見張るため屋根の上に櫓を設けただけの砦程度のものでした。城内には、冨士権現社と天満宮が祀られ、今に残されています。また、利家が付注に移る時、荒子観音寺の本堂を再建し、荒子七カ村(屋敷)には、祭に使用する絢爛豪華な馬道具(ばどん)を残していきました(名古屋市指定文化財)。
 利家が最も信頼した本座者といわれる「荒子衆」はこの土地の出身者であり、金沢城大手門前には荒子ゆかりの「尾張町」が残っています。時を経てなお、荒子と金沢は、荒子小学校と金沢市立味噌蔵町小学校の姉妹提携や関連行事の市民参加による交流が続いており、地元の小学校では前田家の梅鉢紋にちなんだ校章が使われています。
 2002年(平成14)年NHKの大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」が放映され、利家生誕地「荒子」が広く全国に紹介されました。中川区で結成された「前田利家発信隊」は、利家ゆかりの史跡を結ぶ「犬千代ルート」を作り、ルートのガイドや、まちおこしに積極的に参加、郷土の英雄利家とともに百万石のふるさと「荒子」を全国に発信しました。  (参考文献『中川区史』他)

 

2003年3月  名古屋市中川区前田利家発信隊