摂津 平野城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①石屋川

イメージ 2②御影北小学校

イメージ 3③御影城跡碑

 

訪問日:2011年1月(①②) 2011年9月(③)

 

所在地:神戸市東灘区

 

 正平元年(貞和2年・1346)に赤松氏の家臣平野忠勝が築城し、観応の擾乱における戦いに敗れて南東にある郡家に退いて帰農したといわれている。

 

 古くは「城ノ前」「大蔵」「滝ヶ鼻」などの字名があり、現在も南に下った国道2号線に「大手筋」という名の交差点がある。

 

 明治22年(1889)に当時の兎原郡御影村・郡家村・平野村・石屋村・東明村が合併して御影町となり、明治29年(1896)武庫郡編入を経て昭和25年(1950)神戸市に編入され、東灘区の一部となった。

 

 神功皇后が澤之井という泉の水面に御姿を映し出されたことが「御影」の語源といわれており、花崗岩の別名「御影石」の語源となった場所である。

 

 また、海側は江戸時代以降、酒どころとして栄えた「灘五郷」のひとつである「御影郷」で、「白鶴」「菊正宗」「剣菱」などといった造り酒屋が軒を並べている。

 

 

以下、現地城跡碑より

 

 『摂津志』は 御影村城 観応年間平野氏居焉と記す。
 近在に大手筋、城ノ前の地名あり。地勢を考えうるに西は石屋川、新田川を堀とし、東は深田池ほかの池沼と天神川を堀とし、その間の台地上に城地を構え、大手筋で山陽道に通じたり。
 弓弦羽権現は戦勝祈願に勧請せし武神、弓場は武芸鍛錬の道場。平野氏は当地の武将にして、中勝寺は平野忠勝の菩提寺と云う。
 南北朝、観応年間、此の西にかくの如き城ありけり。

 

田辺 眞人 撰

 

 

以下、現地案内板より

 

御影の松

 

 御影の浜辺の松林は『源平盛衰記』に布引の滝・処女塚・雀の松原とならぶ阪神間の名所として記され、『太平記』や『信長公記』では武士の布陣が描かれている。松は読みが待つに通じ、はかない転変の人の世に対して永続を思わせ、常緑の葉が不変を実感させた。藤原基俊の歌も、このような趣を詠っている。江戸時代の郡家・御影・東明・石屋・平野の村々を合わせて明治二十二年に発足した近代の御影町も、昭和初期から御影の松の葉の図案を町章としていた。御影町は昭和二十五年に神戸市に合併して東灘区を構成したが、町内にはまれに御影町章を鋳出したマンホール蓋が見られた。

 

文 田辺 眞人

 

この広場に設置しましたマンホールの鉄蓋は旧御影町のものです。藤原基俊(1060~1142)の詠んだ「御影の松」の古歌に因み、三本の松葉をデザインして昭和四年に制定された御影町章が記されています。既に殆ど失われてしまったため、記念として保存するものです。
 また、御影本町六丁目の西方寺境内には、この「御影の松」の古歌を刻んだ古い歌碑があり、この広場の壁面にその歌碑の文字を写しました。

 

世尓(に)あら盤(は) 又帰こむ 津の國の ミ可(か)けの松よ 面可(か)者(は)里(り)すな
  藤原基俊

 

よ見(み)置し 松のこと葉能(の) 散う世(せ)春(す) ふ多(た)ゝひ千代の 可(か)けそ榮む
  権中納言 富士原正房 新(し)留(る)壽(す)