豊後 岡城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①大手口

イメージ 2②大手門

イメージ 3③近戸門

イメージ 4④三の丸石垣

イメージ 5⑤本丸石垣

イメージ 6⑥西の丸を望む

 

訪問日:2005年5月

 

所在地:大分県竹田市

 

 志賀親次は大友三家の一、志賀氏の嫡流の志賀親度と大友宗麟の娘の間に永禄9年(1566)に生まれた。父が宗麟の跡を継いだ大友義統と不和となり、天正12年(1584)19歳で家督を継いだ。翌年には受洗してドン・パウロという洗礼名を受ける。

 

 天正14年(1586)島津氏が豊後に侵攻してくると、父の親度は南郡衆を率いて島津氏に味方してしまう。親次は大友氏に誠忠を衝くし、岡城に籠って島津義弘らの大軍を何度も撃退し、翌天正15年(1587)豊臣秀吉により九州が平定されると、親度は義統により処刑され、親次は秀吉から激賞され、敵の義弘からも「天正の楠木」と絶賛された。

 

 キリスト教が禁教とされると義統は早々に棄教したが、親次はそれを拒否して豊後におけるキリスト教の保護者となったが、義統の嫡子・義乗に随行して大坂訪問中に義統は宣教師たちを豊後から追放した。

 

 文禄2年(1593)文禄の役における平壌城の戦いで明の大軍に包囲された小西行長から救援要請を受けたが、行長討死の誤報を信じた親次は、義統に撤退を進言し、鳳山城を放棄してしまう。行長は自力で脱出したため、義統は秀吉から味方を見捨てて逃亡したと見なされて改易され、親次も所領を失った。

 

 親次はその後仕官先を求めて秀吉・福島正則・小早川秀秋・細川忠興と渡り歩き、子孫は熊本藩士として明治まで存続した。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡  岡城跡

 

 岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いしていた源義経を迎えるため築城したと伝えられるが(註1)、惟栄は大物浦(兵庫県)を出港しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
 建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で(註2)、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
 天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか十八歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
 文禄三年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし(註3)、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。(註4)
 明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には、十四代・二七七年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げ(註5)ですべてが取りこわされた。
 滝廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。

 

註1「豊後国志」巻六 直入郡の項による。但し当時、惟栄は京都に滞在していた可能性が極めて高い。(「源平の雄 緒方三郎惟栄」)
註2「豊後国志」巻六 直入郡の項による。但し、志賀氏の直入郡進出は、応安二年直入郡代官職・検断職を預けられた以降で、天文二十一年ころは大友氏加判衆(老職)をも勤めていた。(「竹田市史」上巻)
註3「中川史料集」に「志賀湖左衛門親次が旧居に御住居」とあり、戦国時代の城郭を基礎として近世城郭の整備・城下の町割り(竹田町の建設)などをおこなった。
註4 岡城は山城的殿舎(御廟)、平山城的殿舎(本丸・二之丸・三の丸)、平城敵殿舎(西の丸)で構成され、これらが一体となっていることは近世城郭史上特異な城である。
註5 明治七年二月十九日付「「大分県布告書」で、(県内五城の建造物)岡城は六十九棟が入札に付されている。

 

平成十年三月  竹田市教育委員会