摂津 郡山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①石垣の石

イメージ 2②郡山城跡

イメージ 3③白井河原(糠塚)

 

訪問日:2011年10月

 

所在地:大阪府茨木市

 

 郡山城は現在、浪速少年院の敷地となっており、規律正しい掛け声が聞こえてきた。その正門の前に、案内板と少年院建設の際に発見された郡山城で使用されたという石垣の石が置かれている。

 

 郡山城主の郡正信は高槻城主和田惟政の家臣で、郡村など7カ村を領していた。元亀2年(1571)白井河原の戦いにおいて惟政と茨木重朝の連合軍は糠塚に500騎で陣取り、正信もこれに従った。一方、荒木村重・中川清秀の連合軍は2500騎で馬塚に布陣した。

 

 兵力が揃わない状況に正信は単身で馬塚に出向き、時間稼ぎを試みるが、これは失敗に終わり、戦闘が開始される。正信は惟政に撤退を進言するが受け入れられず、馬塚に突入を開始した。

 

 しかし、多勢に無勢で正信は討ち取られ、さらに惟政も清秀に討ち取られた。一方茨木重朝も手薄となった荒木村重の本陣に突入するが、伏兵2000が現れ、村重自身に討ち取られて荒木・中川連合軍の大勝利に終わった。

 

 荒木・中川連合軍は茨木城そして郡山城なども攻略して、惟政の息子惟長が逃げ込んだ高槻城を包囲して城下町を焼き払った。

 

 

 

以下、現地案内板より

 

郡山城

 

「郡氏由緒書」によれば、高利平太夫(郡兵太夫)は、摂津国高槻城主和田伊賀守につかえ、この国立浪速少年院辺りにあった郡山城にいて、近郷七か村を支配していたといわれています。
「陰徳太平記」によれば
 元亀二年(1571)八月、茨木・伊丹両氏と池田氏との対立が茨木方の和田惟政と主君池田勝正を追出した荒木村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、白井河原をはさんで合戦をした。
 このとき和田惟政軍五百余騎、池田勢二千五百余騎と多勢に無勢であり、和田軍の部下の高利平太夫(郡兵太夫)が一人で池田陣に行き、「主君は将軍からの急な呼び出しがあって京都に赴いているので、その帰りを待ってから戦闘を始めたい」と申し入れ時間かせぎをしたが、計略をみやぶられて戦闘は始められました。帰陣した平太夫は主君惟政に「この軍勢では勝ち目がないので一旦退却してはどうでしょう。時に応じて軍を進めたり退いたりするのが名将ですよ」と進言したが聞き入れられず、やむなく名馬「金屋黒」にまたがって、縦横無尽に戦ったが奮戦むなしく戦死したという。
 ここに置かれている石は、城の石垣に使用されていたと思われる石で、三ツ鱗・三ツ星印が刻まれています。
またここから約300メートル西に行った、大阪府茨木郡山住宅B9棟の辺りに「城の内」「門口」など、城の位置を示す地名が残っています。

 

茨木市教育委員会

 

 

白井河原合戦跡

 

 この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木・伊丹両氏と、池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。
 茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆との対立となり、元亀二年(1571)八月、ついにこの白井河原で激突しました。
 この時、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田軍はまだ戦列が整っていませんでした。そこで部下の一人、高利平太夫(郡兵太夫)が時間かせぎをしようとしましたが、その計略がみやぶられたため主君惟政に「多勢に無勢・・・」などと進言しましたしかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の少数で突撃しましたが、この時惟政は、池田方の武将・中川瀬兵衛に討ちとられました。主君を失った和田・茨木の郎党たちは、「主を討たせてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染ったそうです。

 

茨木市教育委員会