志摩 鳥羽城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①家老屋敷石垣

イメージ 2②家老屋敷石垣

イメージ 3③家老屋敷石垣

 

訪問日:1995年5月

 

所在地:三重県鳥羽市

 

 祝・伊勢志摩サミット!とはいえ鳥羽城が注目されることは失礼ながらなさそうだが、最近は少し整備も進んでいるようだ。当時の本丸跡は小学校の敷地だったが、現在は移転されている。すぐ近くの鳥羽水族館は二の丸跡に建てられている。

 

 九鬼嘉隆の兄で、九鬼氏6代当主の浄隆は、居城の田城を伊勢国司北畠具教の援助を受けた志摩7党に攻められる中、永禄3年(1560)に亡くなった。嫡男の澄隆が幼少で家督を継ぎ、叔父の嘉隆が補佐をするが、敗れてともに朝熊山に逃れた。

 

 嘉隆は同年の桶狭間の戦いに勝利した織田信長に仕えて頭角を現し、永禄12年(1569)北畠具教を攻めた信長が具教と和睦すると九鬼氏は田城に復帰し、志摩7党を倒して信長に志摩の領有を認められた。

 

 天正2年(1574)長島一向一揆の討伐に際し、水軍を率いて海上から射撃して活躍した。しかし、天正4年(1576)第一次木津川の戦いでは毛利水軍に大敗し、大坂湾の制海権を失って石山本願寺への物資搬入を許す。信長は嘉隆に毛利水軍に負けない大型船の建造を命じ、完成させたのが6隻の鉄甲船である。

 

 天正6年(1578)6月、滝川一益の大型船1隻とともに伊勢を出航した嘉隆の船団は途中雑賀・淡輪の水軍を蹴散らし、9月に泉州堺湊に入港し、信長に披露した。信長は大いに満足し、11月第二次木津川の戦いに毛利水軍に勝利し、雪辱を果たした。

 

 この戦功により、志摩に加えて摂津にも領地を加増されて、九鬼氏は計3万5千石を領する大名となった。九鬼氏の実権は嘉隆にあったが、7代当主の澄隆の処遇がどうなっていたのかがわからない。年齢は不明だが、この頃にはもうとっくに成人しているはずであり、すでに信長の意向によって嘉隆が当主になっていたのかもしれない。

 

 天正10年(1582)本能寺の変に信長は斃れ、その後嘉隆は織田信雄に仕える。しかし、天正12年(1584)復権を目指して羽柴秀吉に味方した、ともに戦った滝川一益の調略に乗り、水軍を率いて信雄方の尾張蟹江城などを攻略したが。後詰の信雄と徳川家康の連合軍に敗れた(舟入の戦い)。

 

 この年の11月、7代当主の澄隆が亡くなる。嘉隆による毒殺説もあるが、これまで活躍の形跡がないことや嘉隆に殺害するほどのメリットがあるとは思えないことから、元々病弱だったと好意的に解釈したい。

 

 名実ともに8代当主となった嘉隆は、秀吉直属の大名となり、翌天正13年(1585)従五位下・大隅守に任官された。同年鳥羽を本拠と定め、鳥羽城の築城を開始した。

 

 その後は九州征伐、小田原征伐に水軍を率いて参陣し、文禄の役においても朝鮮に渡って戦ったが、慶長の役では家督を嫡子守隆に譲って出陣しなかった。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいては守隆が東軍に与し、嘉隆は西軍に与した。守隆が家康に従って会津征伐に赴き留守にしている間に鳥羽城を奪い、伊勢湾を海上封鎖して、安濃津城の戦いに勝利したが、本戦で西軍が敗れたことを知り、嘉隆は答志島に逃げた。

 

 守隆は家康に嘉隆の助命を嘆願し、了承されるが、その知らせが届く前に嘉隆は九鬼氏の行く末を案じる家臣の進言に従い自害した。享年59歳。