常陸 土浦城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①太鼓櫓門

イメージ 2②太鼓櫓門

イメージ 3③同内側

イメージ 4④西櫓

イメージ 5⑤前川口門

イメージ 6⑥同内側

 

訪問日:1998年7月

 

所在地:茨城県土浦市

 

 土浦城は常陸守護・八田知家の後裔である小田氏に属する若泉氏の居城であったが、永正13年(1516)経緯はよくわからないが、小田政治の家臣・菅谷勝貞が若泉氏を討ち、政治は土浦城に信太範貞を入れて、勝貞を養子とさせた。範貞は大永4年(1524)に病没し、勝貞が跡を継ぐが、後に菅谷姓に戻している。

 

 小田政治は堀越公方・足利政知の子と言われ、それが正しければ足利茶々丸や足利11代将軍・義澄の弟ということになる。

 

 小田氏13代の成治の嫡男の14代治孝が明応5年(1496)家督相続の不満から弟の顕家に殺害されたため、成治の養子となり、永正11年(1514)養父の死去により15代当主となる。

 

 関東南部から勢力を拡大する北条氏に対抗するため、佐竹氏と連携し全盛期を迎えたが、天文15年(1546)河越夜戦に足利晴氏に味方して敗れ、天文17年(1548)には政治が亡くなり、小田氏の衰退が始まった。

 

 跡を継いだ氏治は最大の敵結城城主の結城政勝との対抗上、北条氏との同盟に踏み切るが、逆に佐竹氏を敵にまわすこととなり、さらに上杉謙信も加わって、この間度々居城の小田城を追われて土浦城に逃げ込むことがあったものの、菅谷勝貞や子の政貞、孫の範政といった菅谷一門らの家臣団や領民の協力により、その都度小田城を奪還してきた。

 

 しかし、天正元年(1573)手這坂の戦いで佐竹義重らに敗れてまたも小田城を失うと、反撃を試みるものの追い込まれて土浦城を包囲され、翌年土浦城は落城した。

 

 氏治は庶長子友治が仕える北条氏を頼り、政貞は佐竹氏に降伏したが、その年のうちに友治の要請に応えた北条氏房が土浦城を攻め、政貞は戦わずに降伏した。

 

 天正18年(1590)小田城奪還に執念を燃やす氏治は攻略まであと一歩というところまで攻め込むが、小田城を守る佐竹方の梶原政景の実父・太田資正が援軍に駆けつけ奪還はならなかった。

 

 氏治は同年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に叛旗の兵を起こしたとして所領を全て没収された。娘の駒姫が結城秀康の側室となっていたのが縁で友治や嫡子守治とともに秀康に仕え、やがてその転封により越前に移った。

 

 菅谷政貞は文禄元年(1592)に亡くなり、その子範政は小田氏への忠心を浅野長政に評価され、徳川家康に推挙されて家臣となり、5000石まで加増され、その子孫は幕末まで続いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

 土浦市のはじまりは、平将門によると伝えられているが、たしかな築城は、室町時代永享年間(1429-40)若泉氏によるといわれている。
 戦国時代、小田氏の家臣信太氏、つづいて菅谷氏がこれを奪ったが、豊臣秀吉が天下を統一して、一時結城秀康(家康の子、下総結城氏の養子)のものとなった。関ヶ原の役後、慶長6年(1601)秀康は越前に国替となり、松平信一が城主に移封された。
 その後城主は、西尾、朽木両氏を経て、寛文9年(1669)土屋数直(四万五千石)が城主となった。その子政直は、駿河の田中城に移封され、一時、天和2年(1682)松平信興(二万二千石)城主となるが、貞享4年(1687)再び政直が城主となり、享保3年(1718)には九万五千石に封ぜられ、明治維新に至るまで200年間土屋氏の居城となった。明治2年(1869)土浦城が廃され、本丸跡は、地方行政の改変に応じて新治県庁、新治郡役場、自治会館などが設けられたが、現在は二の丸跡とともに「亀城公園」となっている。城の規模は、本丸、二の丸、三の丸、外丸からなり、その面積は14,000平方米におよんでいた。
(以下略)