因幡 若桜鬼ヶ城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①本丸

イメージ 2②本丸西面石垣

イメージ 3③行止虎口付近ノ石垣

イメージ 4④本丸虎口

イメージ 5⑤三の丸大手門

イメージ 6⑥六角石垣

 

訪問日:2011年8月

 

所在地:鳥取県八頭郡若桜町

 

 若桜鬼ヶ城は、駿河安倍郡矢部村の矢部暉植が正治2年(1200)幕府の命を受けて梶原景時一族を討ち取った功により因幡八東郡山田村を与えられたのが始まりという。

 

 室町時代になると、南因幡において矢部氏は私部城の因幡毛利氏と並ぶ有力国人となり、そろって幕府奉公衆にも任ぜられ、応仁の乱では山名氏に従って参陣した。

 

 文明11年(1479)因幡毛利氏の次郎貞元が守護山名氏に対し反乱を起こすと矢部定利は次郎について守護山名豊時と戦った。(毛利次郎の乱)

 

 当初優勢に戦いを進めていたが、翌年には鎮圧される。しかし、奉公衆であることから厳罰にはならなかった。

 

 長享元年(1487)正式に赦免を受けた毛利次郎と矢部定利は新守護として山名政実を擁立して再び豊時に叛くが、延徳元年(1489)徳丸河原合戦に敗れて敗色が濃厚となり、私部城で次郎が自害、定利は政実とともに若桜鬼ヶ城まで逃れたが、追い詰められてともに自害した。

 

 矢部氏は没落したが、永禄に入り再興して因幡毛利氏とともに山名氏の支配に抵抗し続けたが、天正に入り、安芸毛利氏の吉川元春が因幡に進出するとともにそれに従った。

 

 しかし、天正2年(1574)毛利氏が因幡を撤退すると再興を目指す尼子勝久・山中幸盛が因幡に侵攻、翌年に若狭鬼ヶ城は落城して、城主矢部某は生捕りにされ、矢部氏は滅亡したという。

 

 ちなみに因幡毛利氏は天正8年(1580)羽柴秀吉が因幡に侵攻すると当主豊元は私部城を捨てて吉川経家の守る鳥取城に合流し、翌年経家が切腹して鳥取城は落城し、豊元は行方不明となり、因幡毛利氏は滅亡した。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡  若桜鬼ヶ城跡 (指定年月日 平成20年3月28日)

 

 若桜鬼ヶ城は播磨、但馬へつながる交通の要衝にある。そのため、戦国時代においても毛利対尼子、毛利対織田などによる争奪戦が繰り広げられた。
 築城時期は不明だが、延徳元年(1489)には「矢部館若狭」の記述があり、矢部氏によってこの頃には城が築かれていた可能性が考えられる。一時山中鹿之助による尼子氏再興戦の舞台ともなった。その後、羽柴秀吉による鳥取城攻めの際には織田方の拠点として機能し、天正9年(1581)に鳥取城が落城した後は秀吉の武将木下重堅、関ヶ原の戦後の慶長6年(1601)には山崎家盛が入城している。元和3年(1617)に池田光政が因伯2国を領す鳥取城主となると、一国一城令により廃城となった。
 城郭の規模は大きく二群に分けられる。山頂部から南北に延びる尾根の中腹から先端部にかけては掘切、竪堀が見られ、小規模な曲輪群が構築されている。また山頂付近には、この付近でとれる石材を用いた石垣によって、虎口や天守台等が築かれている。その構造から前者は戦国時代の山城の遺構で、後者は近世初頭になって新たな築城技術で構築されたと考えられる。
 本丸の西側などかなりの石垣が崩れているが、これは廃城の際に意図的に壊されたものである。中世から近世にかけて城郭構造の変遷を窺うことのできる城として学術的な価値が高いだけでなく、そうした破城の状況を今に留めているものとして重要である。

 

平成20年12月 鳥取県教育委員会