淡路 由良城(成山城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①対岸ヨリ成山を見る

イメージ 2②淡路橋立

イメージ 3③生石山より

イメージ 4④生石公園より

イメージ 5⑤生石公園より

 

訪問日:2000年9月(①②) 2001年9月(③) 2015年5月(④⑤)

 

所在地:兵庫県洲本市

 

 池田忠雄は慶長20年(1615)同母兄の岡山藩主忠継が17歳で夭折したため急遽その跡を継いだ。余談だが、寛永7年(1630)寵愛する小姓を家臣に殺害される事件が起こり、脱藩した犯人を匿った幕府旗本と引き渡しを要求する忠雄の間の争いに発展し、寛永9年(1632)忠雄の遺言はその2年後、日本三大仇討ちのひとつ、荒木又右衛門らの伊賀越の仇討ちに発展する。

 

 淡路は忠雄の義父の阿波徳島藩主蜂須賀至鎮に加増され、代官に筆頭家老の稲田示植を置いた。至鎮の子の忠英は寛永8年(1631)から12年(1635)にかけて洲本城に城下町ごと移転させて、由良城は廃城となった。

 

 成山と高碕は元々それぞれ砂州で淡路本島と繋がっており、逆に成山と高碕の間では湾口が開いていた。明和2年(1765)までに成山と高碕はそれぞれ水路で分離され、従来の湾口部は閉鎖された。

 

 成山と高碕は細長い沿岸州で繋がれ、名前も成ヶ島そして別名淡路橋立と呼ばれるようになり、現在に至っている。成ヶ島には渡船で渡ることができる。