①生石崎から全景
②石垣
③灯台
④遠景
⑤遠景
訪問日:2015年5月
所在地:兵庫県洲本市
安政元年(1854)幕府は和歌山藩と徳島藩に大坂湾への入り口となる紀淡海峡を守る台場の築造を命じた。徳島藩は同年中に、由良浦の生石崎に生石台場を、成ヶ島の由良城跡の中央部に六本松台場を、そして成ヶ島南端の高碕に高碕台場の築造を開始した。
三期にわたる工事で文久元年(1861)に完成した。幸いにして、これらの台場から大砲が火を噴くことはなかったが、由良の地は明治維新後も変わらず大阪湾防衛の拠点として重要視され、由良要塞として生石山砲台・成山砲台・高碕砲台などが運用された。
ところで、徳島藩洲本城代で筆頭家老の稲田氏と主家の徳島藩主蜂須賀氏との間には以前から確執があったが、幕末になると徳島は佐幕派、稲田氏は尊王討幕派と分かれ、一層対立は深くなった。
明治維新後、徳島蜂須賀氏の家臣は士族となったのに対し、稲田氏の家臣は陪臣として士族とは認められなかったことが納得できず、稲田氏の家臣たちは稲田邦植を知藩事とする洲本藩の独立立藩を明治政府に働きかけた。
明治3年(1870)この動きに怒った徳島の過激派が洲本城下の稲田氏屋敷などを襲撃、無抵抗の稲田側は死者17人、重軽傷20人を出し、300人以上が投獄され、25棟の屋敷が焼き払われた。
庚午事変と呼ばれるこの事件に対する明治政府の処分は、徳島側の首謀者10人の切腹(日本史上最後の切腹刑)流刑27人、禁固81人等であった。知藩事の蜂須賀茂韶らも謹慎処分を受けたが、藩取り潰しは免れた。
明治4年(1871)、洲本を含む津名郡は5月に発足した兵庫県に編入される。稲田家臣たちには兵庫県管轄の士族として北海道の静内と色丹島への移住・開拓が命じられ、家臣たちの第一陣546人が北へ旅立っていった。
同年7月の廃藩置県により旧淡路国は全域徳島県の管轄となり、さらに徳島県は同年11月の第一次府県統合により名東県と改名される(名東県は一時旧讃岐国も編入)
明治9年(1876)名東県(旧阿波国・淡路国)は第二次府県統合により分割され、阿波国は高知県に、淡路国は兵庫県に編入された。
明治13年(1880)旧阿波国は高知県から分離独立して徳島県となり、現在に至るが、旧淡路国が兵庫県になったのはこの庚午事変の影響だとするのが一般的のようだ。