淡路 叶堂城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①穴太積石垣

イメージ 2②穴太積石垣

イメージ 3③感応寺

イメージ 4④感応寺

イメージ 5⑤感応寺

 
訪問日:2012年2月

 

所在地:兵庫県南あわじ市

 

 文禄4年(1595)志知城主加藤嘉明は伊予に移封され、豊臣氏の直轄領となった。代官として播磨龍野城主の石川光元や三宅丹後守が志知城に入り、直轄地を治めた。

 

 慶長5年(1600)光元は志知城を廃して叶堂(かのど)城を築くが、間もなく勃発した関ヶ原の戦いに西軍について改易され、翌年には没した。

 

 叶堂城は廃され、その跡には感応寺が再築され、改変は受けていたものの昭和59年、三原川改修までは城跡らしい石垣を良く残していた。

 

 ところで、石川光元にはお亀の方という側室がいた。この人は京都八幡正法寺の志水宗清の娘として、天正元年(1573)に生まれ、のち美濃斎藤氏の家臣だった竹腰正時に嫁ぎ、天正19年(1591)竹腰正信を産み、正時死別後に光元の側室となり、文禄3年(1594)石川光忠を産む。

 

 そして、その同じ年に22歳の亀は徳川家康に見初められてその側室となり、翌年には仙千代(6歳で夭折)さらに慶長5年(1600)には後に尾張藩主となる徳川義直を産む。

 

 光忠は15歳となった慶長13年(1608)家康に召し出されて美濃他に知行を与えられ、慶長17年(1612)異父弟の義直の家臣となり、名古屋城代となる。

 

 異父兄の正信も後に義直に仕え、竹腰家は代々尾張藩の附家老を務める。亀は家康没後に名古屋城に移り、寛永19年(1642)70歳で亡くなっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

松帆山感應寺

 

 当寺はもと倭文庄感応寺山に創建されたがその年代は明らかでない 文明十年(1478)頃淡路西国第十四番観音霊場となる 永正五年(1508)火災にあい古津路村叶堂に移転した慶長の初め豊臣家代官がこの地に叶堂城を築く為に当寺も松原中に立退いたが慶長五年(1600)廃城となり中興初代快譽上人が城跡に当寺を再興し蜂須賀藩主の崇敬をえた 昭和五十九年三原川改修により当地に移転した。

 

 

穴太積の石垣

 

 この石積は、慶長年間(1596~1614)の石垣と推定される叶堂城の石材を用いて、穴太積伝承者粟田万喜三が、復元した穴太積である。
 穴太の名は、大津市の穴太に由来するもので当時の石垣築成者に与えられた。
 その構築には、まず大小自然石のなかから、各コーナーの勾配をつくる石材を選ぶ。
 つぎに下石となる石材の形状とその上にのせる石材の凹凸をよく検討したのち石垣を築く。穴太積の特徴は、大小の石材を上下自由に配石する妙と力強さにある。

 

昭和六十年三月

 

西淡町長 久保田正行