①城址碑
②土塁と空堀
③土塁と空堀
④土塁と空堀
訪問日:2012年3月
所在地:兵庫県南あわじ市
安宅八家のひとつ、湊安宅氏の城で、天正9年(1581)安宅次郎は羽柴秀吉の前に戦わずに降伏した。現在は個人宅となっているが、「天尊台」と呼ばれる櫓台が良好に残っているそうだ。
安宅(あたぎ)氏は、清和源氏の長清が承久の乱の戦功により阿波守護となり、その9代の裔・頼春が紀伊国牟婁郡安宅荘に拠り、安宅氏を称した。三好氏も同族である。
安宅氏は後に淡路国由良城を本拠として一族を領内各地に配して淡路水軍統帥として紀伊水道に活躍したが、安宅一乱と呼ばれる家督争いにより力を落とし、三好長慶の弟・冬康を養子に迎えた。
冬康は、淡路衆を率いて長慶に従って各地を転戦したが、永禄7年(1564)5月、長慶に飯盛山城に呼び出されて自害させられた。享年37歳、その2カ月後には長慶も亡くなっている。
淡路は冬康の子、信康・清康と続いたが、天正9年、秀吉に降伏した清康は紀伊に追放されて同年中に亡くなり、安宅宗家は滅亡した。
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