淡路 岩屋城(松尾山城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①松尾山(俎板山)

イメージ 2松尾山(俎板山)

イメージ 3③松帆の郷

イメージ 4④明石海峡を望む

 

訪問日:2012年3月

 

所在地:兵庫県淡路市

 

 淡路島の最北端、松尾山の岩屋城には永禄年間に安宅八家衆の安宅宗景がいた。現在、山は土砂採取のために削られ、そこに温浴施設の美湯松帆の郷が建てられている。近隣にはもうひとつ慶長15年(1610)池田輝政が築城した岩屋城がある。

 

 三好長慶の弟で由良城主の安宅冬康が長慶により永禄7年(1564)殺害されると、冬康の長男信康が家督を継ぎ、淡路水軍の総帥となった。永禄11年(1568)足利義昭を奉じた織田信長が上洛すると、本願寺と結んで対抗するが、元亀3年(1572)義昭・信長に降伏した。

 

 淡路十人衆のひとり菅達長(かん みちなが)は、長慶の末弟野口冬長の養家と同族だと思われるが、安芸の毛利輝元についた。天正4年(1576)信長に追放された義昭が毛利氏に迎えられ、輝元は信長に敵対する本願寺に味方し、信康の守る岩屋城を攻略し、達長を城主にした。

 

 さらに第一次木津川口の戦いで毛利水軍は織田水軍に大勝し、毛利氏は、本願寺への食糧等の補給を岩屋城を利用するルートで続けた。

 

 しかし、天正6年(1578)の第二次木津川口の戦いで、毛利氏は敗れて大坂湾の制海権を失い、天正8年(1580)には本願寺顕如がついに信長に降伏した。

 

 天正9年(1581)織田軍の四国攻めに先立ち、羽柴秀吉が淡路に侵攻すると、岩屋城は1日で陥落、達長は逃亡して逼塞した。

 

 しかし、天正10年(1582)本能寺の変の後、達長は再起して明智光秀に与し、仙石久秀の洲本城を攻略するが、すぐに奪還され、四国に渡り、長宗我部元親の弟・香宗我部親泰の配下となった。

 

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの折には紀伊の雑賀衆とともに岸和田城に攻め入るが敗退した。

 

 天正13年(1585)四国攻めの結果、長宗我部氏とともに降伏、淡路のどこか(岩屋城か)で所領を安堵されて、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役などで水軍を率いた。

 

 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に西軍につき所領を没収され、藤堂高虎の家臣となる。慶長19年(1614)大坂冬の陣の後、大坂城外堀の埋め立て工事を拒んで高虎と口論になり、切腹を命じられるという不可解な最期を遂げている。