近江 横山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①主郭から伊吹山

イメージ 2②小谷城(右)を望むイメージ 3③琵琶湖を望むイメージ 4④秀吉時代の主郭イメージ 5⑤竪堀イメージ 6⑥虎口跡


訪問日:2012年8月


所在地:滋賀県長浜市


 京極氏によって築城され、浅井亮政が攻略して改修したと思われる。永禄4年(1561)浅井賢政が六角氏に対応するため一族の浅井井演を置いた。


 浅井氏は織田氏と連携して勢力を拡大するが、元亀元年(1570)織田信長と決裂し、織田・徳川連合軍が小谷城から姉川を挟んで南に数kmのところに位置する横山城に迫ると、長政は救援軍を出して姉川の戦いとなる。勝利した信長は横山城を攻略して羽柴秀吉を置いた。


 秀吉はここを拠点に小谷城攻略を進めていく。織田軍の包囲網が縮まり前線が虎御前山城に前進するまで、秀吉はここから指揮をとった。小谷落城後は秀吉が領主となったが横山城は廃城となった。

以下、現地案内板より


横山城略史


 横山城は、長浜市と米原市の境界をなす横山丘陵(一名臥竜山)の最高所(標高312m)を中心に三方の尾根にY字状に遺構が配置されている。その主な施設は、四十ヶ所以上の曲輪からなり、いたるところに土塁・堀切・竪堀などの防御施設が設けられており、その機能は堅固で典型的な戦闘用の山城であったといえよう。
 この城は、当初京極氏の支城として築かれたといわれ、その後六角氏と浅井氏との対立激化にともないそれぞれの前進基地として争奪が行われ、浅井氏の勢力が拡大したことにより浅井氏の前進基地として役割を果たした。
 この城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570年)の姉川合戦(別名野村合戦)とそれ以降の織田氏・浅井氏の攻防においてである。
 ここ江北の地(湖北地方)は、古くから北国や東国から京都に通じる交通の要衝の地にあたり、全国平定を目指す信長にとっては、そのおさえとして姻戚関係を結んでいた浅井氏の離反は大きな脅威であった。また、前方に延暦寺・石山本願寺、背後に武田勢、南に長嶋の一向一揆さらに北には浅井氏と手を結んでいた朝倉勢と、信長・秀吉主従にとってこの時期は多難な状況にあった。
 姉川合戦により浅井氏から奪った横山城を預かった秀吉は、その後何度かの浅井氏の攻撃にもかかわらず、浅井氏滅亡の天正元年(1573年)までの約三年間守り通し、浅井・朝倉勢を牽制することにより信長の背後を守った。信長自身も本願寺攻め・小谷攻めに際して何度も本拠地として利用するなど重要な役割を果たしている。
 また、この城は秀吉にとってその後の江北を領有する直接の足がかりとして、さらに全国平定の基礎を築いた城としても長浜城に劣らぬ重要な歴史的価値をもっている。


長浜市