①石田屋敷
②観音寺と横山城
③観音寺遠景
④三成水汲みの井戸
⑤案内図
訪問日:2012年8月
所在地:滋賀県長浜市
横山城の西南麓に石田屋敷があった。石田三成の父正継は、ここ石田村を拠点とした地侍とも京極氏の仕官ともいわれ、和歌や文学に造詣が深い人であった。
三成は永禄3年(1560)ここで生まれ、秀吉が長浜城主となった天正2年(1574)頃に父や兄正澄とともに秀吉に仕えた。秀吉との出会いの逸話「三杯の茶」はよく知られており、観音寺境内には水汲みの井戸が伝えられている。
三成の兄正澄も堺町奉行などを歴任するなど河内に2万5千石を与えられていた。父と兄は三成をよく補佐し、関ヶ原合戦時は佐和山城を守備していたが、関ヶ原の合戦の後、小早川秀秋らの猛攻に遭い、奮戦するも自害した。
合戦後、三成の嫡男重家は仏門に入り、次男重成は西軍に与していた津軽信建の助力により弟津軽信枚に嫁いだ姉の辰姫(高台院の養女)とともに津軽に逃れ、杉山氏を名乗り津軽藩家老となり、子孫を伝えている。
以下、現地案内板より
石田三成屋敷と横山丘陵(石田町)
この場所は、豊臣秀吉の五奉行の一人として活躍した石田三成の出生地です。三成の父親・正継は浅井長政の家臣で、石田村の地侍でした。この地を北端とした1町4反の場所は小字「治部」と呼ばれ、石田家の屋敷跡と伝えられています。また、近くには石田家の墓地や、同家の氏神と伝えられる八幡神社があります。
一方、この東の横山丘陵上には、木下(後の羽柴・豊臣)秀吉が城番(城の留守居)となった横山城があります。もともと小谷城の支城であった横山城を、織田信長の軍勢が包囲したことが姉川合戦の発端となりました。
横山城から北、南北約1.5キロ、東西約1キロには、古代の古墳を改修して構築した曲輪跡が、実に30ヶ所にわたり点在することも知られています。これらには、県指定史跡の茶臼山古墳を改修した龍ヶ鼻陣所や、その上部にある龍ヶ鼻曲輪など、信長本陣として使われた曲輪を含んでおりいずれも浅井軍と織田軍の合戦の中で構築された曲輪跡で、姉川合戦との関連が指摘されています。
一方、この東の横山丘陵上には、木下(後の羽柴・豊臣)秀吉が城番(城の留守居)となった横山城があります。もともと小谷城の支城であった横山城を、織田信長の軍勢が包囲したことが姉川合戦の発端となりました。
横山城から北、南北約1.5キロ、東西約1キロには、古代の古墳を改修して構築した曲輪跡が、実に30ヶ所にわたり点在することも知られています。これらには、県指定史跡の茶臼山古墳を改修した龍ヶ鼻陣所や、その上部にある龍ヶ鼻曲輪など、信長本陣として使われた曲輪を含んでおりいずれも浅井軍と織田軍の合戦の中で構築された曲輪跡で、姉川合戦との関連が指摘されています。