近江 小谷城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①黒金門跡

イメージ 2②大広間跡

イメージ 3③本丸石垣

イメージ 4④山王丸跡

イメージ 5⑤山王丸東面石垣

イメージ 6⑥大堀切

 

訪問日:2010年7月

 

所在地:滋賀県長浜市(旧東浅井郡湖北町)

 

 近江北半国の守護京極高清の家臣浅井直政は嫡男に恵まれず、娘の蔵屋に庶流の亮政を娶せて後継とした。

 

 京極家では高清が長男高延を差し置いて次男高吉に家督を譲ろうとしたことから御家騒動が勃発、亮政は高延を推して高清・高吉とその一派を尾張に追放し、京極家中を掌握した。

 

 しかし、勢力拡大とともに南半国守護の六角定頼や亮政の専横に不満を抱いた高延と対立し、解決できないまま天文11年(1542)に52歳で亡くなった。

 

 蔵屋との間には嫡男政弘と娘の鶴千代(海津殿)があったが、政弘は早世して鶴千代の婿に庶流田屋家から明政を養子に迎えたが、結局、亮政の跡は尼子氏(京極一族)からの側室馨庵が産んだ庶長子久政が継いだ。家中は後継問題で混乱したようで、久政は六角氏に臣従せざるを得なかった。

 

 鶴千代は浅井氏滅亡後は2人の娘とともに淀殿に仕え、慶長7年(1602)没、長女海津局は大坂陣後千姫・江に仕え、次女饗庭局は淀殿と運命をともにしている。

 

 久政は近江の土豪井口氏娘の小野殿を正室としたが、小野殿は六角氏への人質として観音寺城で長政を産んでいる。浅井家滅亡時には織田氏に捕えられ、惨殺されている。

 

 久政と小野殿の娘(京極マリア)はかつての政敵京極高吉に嫁ぎ、後に秀吉の側室となる竜子(松の丸殿)らを産んでいる。

 

 久政には他に側室との間に阿久姫(昌安見久尼)がいる。彼女は身長176㎝、体重105㎏の巨体で、浅井氏滅亡時(北庄落城時とも)には長政の娘3姉妹を法衣の中に隠して織田家の残党狩りから守ったとの伝説が残っている。

 

 その茶々・初・江の3姉妹は歴史ドラマなどで有名だが、特に江は徳川3代将軍家光や千姫、そして後水尾天皇の中宮となった和子の母であり、明正天皇の外祖母である。

 

 さらに江は朝鮮役で亡くなった豊臣秀勝との間の娘で公家の九条家に嫁いだ完子や尾張徳川家に嫁いだ家光の娘千代姫の子孫である貞明皇后(九条節子)が昭和天皇の母であるので、血統的にも現在の天皇家の祖となっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

 

国指定史跡 小谷城跡

 

 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」といわれたほど、近江は天下を左右する重要な位置にあり、数多くの戦乱の場となりました。このため多くの城郭が築城され「近江の城郭を語らずして中世は語れず」と言われるほど、近江には中世の城館が数多く見られます。その中でも小谷城は、亮政・久政・長政の三代にわたって、小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模をもつ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。
 小谷城は、織田信長の激しい城攻めにより落城しましたが、その後、城跡は、何ら手を加えられることなく長く埋もれたまま、当時の面影を今に残し、私たちに伝えています。
 浅井家は、三代にして50年あまりで滅んでしまいましたが、長政とお市の方(織田信長の妹)との間に生まれた三人の娘は、成人して、長女の茶々は豊臣秀吉の側室‐淀君‐として、次女の初子は大津城主京極高次に嫁ぎ、三女の達子は徳川二代将軍秀忠の夫人となって、家光(三代将軍)・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)等を生み、何れも日本の歴史の一こまをかざるとともに、後世に名を遺しました。