①長谷高山城跡
②長谷高山城跡
③長谷高山城跡
④堀切
⑤鐘搗堂
⑥眺望
訪問日:2005年3月
所在地:兵庫県佐用郡佐用町
ながたにこうやま城と訓む。建久2年(1191)宇野播磨守山田則景という人が源頼朝から佐用荘の地頭職を賜り、ここに城を築いたとされる。則景は北条義時の婿であったともいわれている。
則景の嫡男の家範が赤松村に住んで初めて赤松氏と名乗り、播磨の名家となっていくが、高山城は則景の後、将則、光広と続き、3代で絶えたという。
天正5年(1577)尼子氏再興を目指す尼子勝久がこの城に拠って上月城を攻略したことから別名を「尼ヶ城」とも呼ばれている。
高山城跡
高山は沖田平野の北端にあり、横坂遺跡、本位田遺跡、佐用都比売の杜、大撫山、長尾遺跡、円応寺遺跡等々が一望できる。
尾根伝い北東4キロに奈良時代の創始という高伏山長谷寺があり、高山はその参道の入り口として鐘搗堂があったと伝えられる。
又、建久年間(約八百年前)に佐用荘地頭となった山田則景は隠居後ここに高山城を築いて住み、末氏家範が生まれ、それがのち佐用荘南端の赤松に移り住み赤松姓を名のった。
ここは赤松氏発祥の地と言われ、城跡は今も「千畳敷」と呼ばれている。
尾根伝い北東4キロに奈良時代の創始という高伏山長谷寺があり、高山はその参道の入り口として鐘搗堂があったと伝えられる。
又、建久年間(約八百年前)に佐用荘地頭となった山田則景は隠居後ここに高山城を築いて住み、末氏家範が生まれ、それがのち佐用荘南端の赤松に移り住み赤松姓を名のった。
ここは赤松氏発祥の地と言われ、城跡は今も「千畳敷」と呼ばれている。
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